機能不全社会と反逆の心理  右翼・社畜・ニート・底辺の行き場のない怒り  

 

今までは主に家族の機能不全状態が生みだす心・精神の病にスポットを当ててきましたが、それではなぜ、「親」はそのような能不全に陥ったのでしょうか?

それは全部遺伝のせいでしょうか? あるいは「彼らの親や前時代の思考・文化の影響」や、「彼らの家庭環境の負の遺産の継続」だけが原因でしょうか?

もちろんそれもあるでしょう。ですが、人は個人的であるのと同時に社会的な生き物なのです。全てが個人・家族という狭い環境だけで決定されているわけではありません。

今日は個人・家族というミクロな単位から社会というマクロな単位に視点を移して考察してみましょう。

 

何故、ひきこもり、や「底辺」と蔑視される人々の悪循環の現状は簡単にかわらないのでしょうか?前日書いた記事のように全てが家庭環境だけで決まっているのでしょうか?前日の記事はあくまでも家庭という最小の社会単位での負の影響を考察したのに過ぎません。

発達心理学でみた人格(パーソナリティ)障害親・家庭の機能不全が及ぼす影響

もちろん、幼少期から青年期という時期はパーソナリティ形成において、心身共に重要な決定的な時期ですので、この時期の家庭環境の影響力は大きなものですが、

「何故、親は、そして家庭はそのようでしかあれなかったのか?」という視点も重要です。生まれてきた子供たちはまだ社会を知りませんが、親は個人的な存在であるだけでなく、公的・社会的な存在でもあるのです。

それではここで機能不全家族の一例として、ニート・ひきこもりと親、そしてイジメっ子とイジメられっ子の関係と社会の関係を見てみましょう。

以下の図は「ニート・ひきこもり・不登校(登校拒否)の原因と親」より引用紹介のものですが、シンプルながら非常に的を得ています。

引用 ⇒ http://hutoukou2ch.web.fc2.com/index.html

※上の関係図は主にブラック企業に焦点をあてた「イジメ・不登校・ニート・ひきこもり」の悪循環の原因の一例です。

この記事と関連するもので、別の角度から考察した記事を追加更新したので紹介しておきます。

「底辺」ラベリングの思い込み と 支配・管理側の都合で生まれるシステム

 

機能不全家族、両親・家庭の「心の余裕のなさ」や「負の意識」や「価値観」は、その両親と社会との関係性時代との関係性も少なからず影響を与えています。

それではもっとマクロな視点に異動します。まずここで、今激しく対立している「右翼・左翼」というイデオロギーはどのような思想のグループなのか、

その意味・解釈の仕方については、時代、国、組織、そして個人によっても異なることもあります。

その1例として、以下に紹介の外部リンク先の動画では、社会学者による「右翼・左翼」の背景の分析です。「左翼のクソ」に「シャラップ」 ・日本で要人の失言が相次ぐわけ

では次に、「右翼・左翼」という「一般的なイメージ」での概念のシンプルで基本的な違いを、以下に紹介の動画と「ノーラン・チャート」でみてみましょう。

 

まぁシンプルで大きな区分けなので、細かいところはもっといろいろありますが、このブログは政治専門サイトではないので細かいところは省きます。このような大きな思想的な力学もまた、教育や考え方、社会の価値観、現実的な優先順位などに影響を与えています。

今回の記事では様々な人々の意見・分析を紹介しつつまとめた記事を書いていますが、

私個人の「右翼・左翼・保守・リベラル」などといった概念への見つめ方・捉え方は以下の外部サイトの記事が一番近く共感する部分が多いですね。そろそろやめませんか?「右翼/左翼」「保守/リベラル」って分類は。

 

2・6・2の法則の基本的な意味に関しては以下の二つの紹介記事を参考にご覧ください。

「2-6-2の法則」と人材育成方法
パレートの法則と「機能不全社会」の「神経症的」パーソナリティ 
組織の長期的存続には“働かないアリ”が必要――北大研究

2・6・2の法則」は、パレートの法則という経済学の理論から派生したものだと言われていますが、パレートの法則自体も、必ずしも全ての現象に当てはまるというわけではありません。

パレートの法則は、ある集団の上位20%が全体の80%を生み出すという傾向を示すものであり、具体的な数値や比率は状況によって変わります。

科学的に実証された理論ではなく、あくまで経験則によるものとはいえ、集団においてこのような見えない力学が働いていることを私もよく感じることがあるため、「無意識の作用」のひとつと捉えています。

今回、2・6・2の法則は無意識での判断が投影されたもの」として、この角度から考察してみました。

 

一見、人の優劣は「能力の差」だけで決まっているようにも見えます。もちろん「今、顕在化している能力差」こそ、現実で人の優劣を決める重要なファクターあることに変わりはないのですが、

「潜在的な能力」がどのように集団内で「顕在化」されるかは、「無意識で調和バランスの判断」が投影された場合、無意識的に能力の種類が調整されて変化するのです。

なので、選り抜きのトップのタイプの人だけを集めると、逆に全体として上手くいかないことが起きてきたり、その中の誰かが急にパっとしなくなるのは、「場の能力の種類が特定の種類に固定化されてしまう」からです。

あるグループに求められた最高の結果を出すには、全体としての調和バランスが必要であり、結果を出すトップだけの手柄ではないのです。

「能力の種類が異なるもの」が「見えない相乗効果」を与えていることで、全体としての最高の結果を「選ばれしトップの人物」が代表としてはじきだしているのです。

以前、「無意識と意識の関係」のテーマで、高いものは低いもの支えられ、光は影によって支えられていると書きましたが、

これは個人の「無意識と意識の関係」にかぎらず、集団、そして社会の「集合的な無意識と意識の関係」においてもそうなのです。

「顕在化された能力」こそ今必要とされるのが現実というものですが、「潜在的な能力差」においては私は以下のように考えています。参考にどうぞ。⇒ 人材不足社会と社会の閉塞感「役に立たない人「会社に必要ない人」は本当か?

 

自然界の2・6・2の法則と社会の2・6・2の法則

もともとこの法則は「アリ」を観察して発見された現象なのですが、自然界の2・6・2の法則と現代社会の2・6・2の法則は決定的に違うのです。

それは自然界は多種多様生命の無意識の機能がそのまま外側に現象化し、「不自然な抑圧原理人工的な観念的固定化」はありません。なので、自然界の2・6・2の法則は顕在意識を超えた大自然の法則にそって秩序を形成しているのです。

そこにはたゆまぬ循環があり、自浄作用があり、新鮮な活力の瞬時の表現があるのですが、現代社会システムは本質が機能不全であり不調和であるために、観念的な固定化を行い、抑圧・管理支配によって人工的で表面的な秩序・調和を力ずくで演出しているに過ぎません。

なので、「負担を強いられている側」がオーバーワークになって心身が壊れてしまう、あるいは「全く潜在能力が顕在化出来ず生かされない現象」がアチコチで起きてくるのです。

現代社会システムで生まれた、人工的なマクロ単位の2・6・2の「役割や立場の観念的な固定化」の場合、下位2割は「否定型、抑圧型、依存型」に押し込まれ、なかなか潜在能力が生かされず、

中間6割は、上の方になればなるほど社会システム上での恩恵、保護がある分、社会的には立場は安定していますが、中間6割でも下部にいくほど否定的な面は多くなります。

上位2割のグループが、人工的なマクロ単位の2・6・2での「役割や立場の固定化を管理・調整・維持・支配しています。

そして最近、「日本が右翼化してきている」とか、どうもそっちに向かっているようなムードを多くの人が感じているでしょう。

何故そういう現象が今起きているのでしょうか? 中国や韓国が原因でしょうか? 実はこれも人工的なマクロ単位の2・6・2の役割や立場の観念的な固定化が原因のひとつなのです。

 

「プロレタリア型右翼」と定義された永井 俊哉さん「システム論」を参考に見てみましょう。とても面白い鋭い考察だと感じましたので引用・紹介します。サイトも是非ご覧になってください。

この文の中に赤木さんという方が出てきますが私はこの方のことはよく知りませんし、否定的な感情は持っていません。また永井 俊哉さんの考察は論理的で面白いとは思いますが全て納得しているわけではありません。あくまでもプロレタリア右翼に関する考察のひとつの紹介、という程度の意味です。

「プロレタリア型右翼」 より引用抜粋

従来、左翼は弱者の思想で、右翼は強者の思想と考えられてきた。たしかに、左翼や右翼という言葉が生まれたフランス革命後の議会では、そうした区別は有効だったが、

現代では、弱者であるがゆえに右翼的な思想を持つ、プロレタリア型右翼とでも呼ぶべき、新しい右翼が増えてきた。

知識人たちは、こうした右翼を権威主義的パーソナリティー論によって説明しようとするが、私はそれとは違う視点から、プロレタリア型右翼を解釈したい。

(中略)

《流動性のない格差社会で負け組みとして固定されているがゆえに、 戦争によって流動性を作り出して、権威を打ち倒そうとしている》というような逆の説明が成り立つのである。

読者の中には、弱者が強者を打ち倒したいのであれば、右翼的な戦争ではなくて、左翼的な革命あるいは改革によってその目的を達成する べきだという人もいることであろう。これに対して、赤木は次のように反論する。

革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」というような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対して革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは明白だろう。

[?]

正社員で、もしくは非正規社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困労働層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない。

つまり社会への信頼もなく、少数派であるしかない私が、革命という結論に至ることはあり得ないのだ。[赤木智弘(2007)けっきょく、「自己責任」 ですか]

非正規労働者が労働者に占める割合は、2008年の平均で、34.1%で、 男性に限定すると、たったの19.2%である[統計局(2009)雇用形態別雇用者数]。

こういう数が少なくて、金も何もない弱者が団結して革命を起こしても、鎮圧されて失敗に終わるに決まっている。

左翼政党も、労働組合に加入している正規労働者や女性といった票になる多数派の「弱者」のための政治には熱心であるが、赤木のような票にも資金源にもならない少数派の弱者には冷たい。

だから、赤木は既存の左翼に対して強い不満を持っている。赤木からすれば、左翼的革命/改革よりも右翼的戦争の方が、固定化された格差 社会を流動化する上で、より現実的な選択肢なので
ある。

 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://www.systemicsarchive.com/ja/a/right_wing.html

2020 追加更新 – ここから –

この記事を書いたのは2013年ですが、それから数年後の日本はどうなったでしょうか? まず以下の図を引用紹介します。

図の引用元 ⇒ https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54298?page=3

日本は2013年よりももっと悪くなっています。格差は広がり中流はそのまま地盤沈下し、格差が階級のように固定化されつつあります。硬直し生命力を失った機能不全社会に向かいつつあるのです。

「このままいけばもっと悪くなる」と当時から一部の方は分かっていたし、様々な角度からそれを指摘していたにも拘わらず、全く聞く耳も持たずに悪くなるやり方で突き進み、

そして予想通り最悪に方向性へと現在向かっています。2020年、日本は1人当たりのGDPがOECD諸国で最下位グループにまで落ち、もはや先進国とは言えないとまで言われれつつあります。

韓国に1人当たりGDPや労働生産性で追い抜かれた日本の行く末

追加更新- ここまで –

右翼・社畜・ニート・底辺の行き場のない怒り

先の「システム論」の引用記事で、弱者が強者を打ち倒したいのあれば、右翼的な戦争 ではなくて、左翼的な革命あるいは改革ってその目的を達成する べきだという人もいることであろう。ですが、

これは過去の世界ではアチコチで起きていたことですが、現在日本では完全にこれらの勢力は鎮静化され管理支配されて抑圧化されています。

そのために「社会的な同調圧力」での反撃しかできなくなっているのです。 「言葉狩り」「群衆秩序」、そしてネットでの批判合戦そういう形で闘争性や怒りが噴出しているのですね。

内部分裂と闘争・怒りを、管理支配と同調圧力表面的な道徳教育で封じ込めて抑圧化しているだけなんですね。その結果、どんどん暴力性は抑圧化し陰湿化し、ヒステリックで神経症的な社会になっているわけです。

だから、出てくるものを「見た目だけ整っているように見せる」ために抑えるのではなく、「問題そのもの」を何故見ないんですか?ということです。全てが表面的なんですね。だからますます複雑化し、そして不満ガスは圧縮化していくでしょう。

システム論での引用記事中にあるように、『 革命は「多数派の国民が、小数派の国家権力に支配されている」とい うような状況を逆転させるための手法である。少数派が多数派に対し て革命を行ったって、十分な社会的承認を得ることなどできないのは 明白だろう。』 となるわけですね。

映画「カイジ」では王のカードに勝てるのは「奴隷」のカードでしたが、現代社会では「奴隷」も王には勝てないのです。「プロレタリア型右翼」の心理は、「世界終末」を望む人々に共通する心理があるように私は感じますね。

「一揆もテロもクーデターも通用しない巨大化しすぎた社会」だから、もう残された道は戦争を望むしかない、「終末論」的な破壊願望なのです。

つまり革命衝動に近いくらいの激情が彼らにはあるということです。だがそれでは何も変わらないから「プロレタリア型右翼」というアクションに彼らは今出ているというわけですね。

半沢直樹が大ヒットしたのも、上部構造によって「抑圧化」させられている下の怒りなんですね。 そういう気持ちが一般人にも鬱積してきているのでしょう。

ではどんな対策があるでしょうか?これはシンプルですね。固定化(格差の階級化)ではなく、もっと「循環させる」こと、それには下から上に上がる道筋を作ること、「出る杭は打たず、失敗者にもチャンスを与え、挑戦する者をもっと応援する」こと、管理抑圧し過ぎないことです。

「機能不全社会」での「パーソナリティ障害」生む「自我意識」の形成とそのタイプ

上下の循環を起こすことで、極端な停滞と固定化を起こさないことがより自然な調和した「社会の2・6・2」を形成し、ルサンチマンを強化せずに昇華させ、

その結果、硬直したシステムを再構築していく「創造性」「活力」が「流動性のあるシステム」の恒常性を保つように機能する、ということですね。

そしてこれを妨げるものは上記の固定型の2・6・2構造に加えて、「少子高齢化」による社会の硬直化も絡んでいます。それに関連する記事を以下に紹介します。

「若者にハングリー精神を求めるなんて愚の骨頂/日本の閉塞感を打破する秘策とは?」 より引用抜粋

中高年の人々が「若者論」を振りかざすのは、一種の期待なのだと思う。歴史は、若い世代によって動かされてきた。年上世代の人々も現在の閉塞感に嫌気がさしているからこそ、どこかにいる「すごい若者」にこの世界を変えてほしいと期待しているのだ。

で、その期待が満たされないから「ハングリー精神が足りない」と短絡する。しかし、この「閉塞感」の本当の原因は、あらゆる組織・集団の高齢化だ。

若者のハングリー精神が不足しているのではない、生まれ持った蛮勇さを発揮できない社会構造の側に問題があるのだ。「産・官・労の高 齢化」が解消されない限り、この国に未来はない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 若者にハングリー精神を求めるなんて愚の骨頂/日本
の閉塞感を打破する秘策とは?

もちろんこれこれだけで全て解決というほど単純なわけでなく、他にもネックになっている要素はありますが、今の日本社会を健全に元気に活性化させるのに必要なもののひとつであるには変わらないと、私はそう考えます。

 ◇ 関連記事 ⇒  社会の閉塞感「生きづらさ」の社会心理を生む構造

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