今の世界は、結局のところ、価値や理念の名を借りた構造的な力の非対称によって動いています。「中立」「普遍」「法」「人権」といった語がどれほど唱えられようとも、その適用は「無地点」ではあり得ません。
どの主体も必ず、自らの立脚点――フッサールがいう「生活世界」にかかわる一人称的起点――を持っているからです。すべての判断、理解、価値づけはこの起点からしか生まれず、形式的に普遍語が成立しているように見えても、背後では必ず位置性が作用しています。
ところが政治や倫理の言語においては、この起点は巧妙に隠されます。「法」「人権」「正義」といった語は、誰にでも等しく適用されるかのように振る舞います。その形式的普遍性は、実質的な非対称性を覆い隠し、構造的偽善を生み出す。
無位置的な普遍主義は、ハーバーマスが理想化したディスコース的理性(対話・議論・言語的やりとりを通じて妥当性を検証しようとする理性)を掲げながらも、現実の権力関係や発言機会の差の前で脆くも破綻します。
言葉は無力すぎる
でももともと言葉ってそういうものだったのではないか
理解したくない人は理解しなくてよい— 東浩紀 Hiroki Azuma (@hazuma) January 9, 2026
理性は理想として存在するだけで、現実では常に力の配列に巻き込まれるのです。
この土台の上で展開してきたのが、道徳化したリベラリズムです。リベラリズムは本来、法の手続き的中立性、表現の自由、個人の尊厳、無罪推定といった制度的条件を守る思想でした。
しかし現代において――実際にはトランプ以前から――リベラルは制度を介した政治思想から、道徳運動へと変質しました。
「被害者の声をまず信じよ」「議論そのものが加害である」という道徳の即時性は、熟慮や審理の時間を否定し、ハーバーマス的熟議の空間を短絡させます。その結果、議論不可能性そのものが倫理として称揚され、正義は手続きの外で即座に発動されるのです。
この制裁はもはや国家権力ではありません。フーコーのいう「生政治」「規律権力」が社会全体に遍在化し、SNSでの糾弾、職場や業界からの排除、契約解除、炎上による評判破壊といった形で分散的に行使されます。
罪状は曖昧で、責任主体は不明瞭、処罰は無期限、赦しの制度は存在しない。中世的な私刑の特徴が、「人権」や「ケア」といった普遍語を装って復活したのです。非対称な制裁の正当化は、「差別は絶対悪である」という単一の道徳的前提です。目的の正しさが手段の暴力性を不可視化し、善を語る言説が最も強い権力になります。
中立が「権力の仮面」と批判されるとき、カール・シュミットが見抜いた「政治的なるもの」の本性が顕在化します。中立が否定される瞬間、世界は友と敵の区別で再構築され、規範は普遍的ルールではなく、敵を殴るための武器となります。
制度は信頼を失い、決定は力関係によって押し切られる。リベラリズムはここで、かつて批判してきた排除と暴力の構造を内面化しつつ、政治的闘争の形を変化させただけになります。
トランプはこの構造の反転として現れました。彼は例外的逸脱者ではなく、リベラルが文化・倫理・言論の領域で先に確立してきた手法――規範の武器化、敵への寛容拒否、制度的不信――を政治の前面に押し出した鏡像的存在です。彼の登場は、非中立世界の論理がいかに社会を動かすかを露わにしました。
ハンナ・アーレントが示したように、正義と暴力の境界は理念ではなく制度によってのみ確保されます。しかし制度が中立の崩壊で侵食されると、正義の名での暴力は止まらない。「悪の凡庸さ」は、善の名を語る私的制裁の平凡な行使として再現されます。
日本的文脈では、同じ構造はより陰湿に展開します。法の中立性より空気や共感、手続きの中立性より同調や共感、制度より印象や共感が優先される社会では、非公式制裁は不可逆的な排除として作用します。
そして何より皮肉なのは、かつてその「空気」「同調」を批判してきた進歩派が、今や空気・同調の番人として、正義の名で排除の指揮を執っていることです。
「中立は権力の仮面だ」という批判から始まった運動は、最終的に「中立を名乗る敵を排除せよ」という指令へと変質します。その過程で普遍語は内部から空洞化し、規範は守るものではなく使うものとなり、制度の正当性は崩壊します。
最終的に残るのは、力による決定だけです。これが、私たちが今直面している「ポスト普遍主義的秩序」の姿です。
「いまの世界は、我々自身がつくったクソだ」…“伝説の監督” タル・ベーラが語る「後進不誠実続ける理由」と「衝撃作24年後の4K版公開」より引用・抜粋
後進育成は「エデュケーション(教育)ではなくリベレーション(解放)」
──今回の来日では福島でワークショップをされましたが、約4年半前に取材した際、ご自身は教師ではないとおっしゃっていました。知識を上から与えて評価する教育システムは“クソ”だ、と。にもかかわらず、後進の育成に励む動機は何ですか。
タル まず、できることならば、世界中のアートスクールを閉鎖させたいと思っています。なぜなら、教えられるものではないからです。教師がレクチャーをした後に試験をし、教師がいったことを繰り返せばいい成績をもらえるというのは、そもそも教育ではない。
私のゴールは、相手を解放することです。彼らは、自分自身の言語を見つけなければいけないし、自分のやり方を発見しなければならないし、世界を理解しなければいけません。いつも口にしているのは、まず人生を、そして世界を学び、理解してほしいということです。
(中略)
抽象的な世界を描くにも、タル・ベーラ作品は、人間の生活の実感をこめることを忘れない。たとえば、食事のシーンは象徴的だ。人々が決して美味そうに食べていないことも含め、生活を続けることのリアリティが息づく。
引用・抜粋 ➡ 「いまの世界は、我々自身がつくったクソだ」…“伝説の監督” タル・ベーラが語る「後進を育て続ける理由」と「衝撃作24年後の4K版公開」
2025年ノーベル文学賞を受賞したクラスナホルカイ・ラースローは、1980年代から映画監督タル・ベーラと長期にわたって共同制作を続けてきました。彼の文学世界を最も深く映像化してきたのが、タル・ベーラ。
映画は物語ではない。大部分は映像と音、多くの感情だ。物語はただ何かを覆っているのにすぎない。 - タル・ベーラ
映画ではないですが、川端康成の作品にもまた、「物語ではない」ものを感じます。川端康成は絵を描くように文章が書ける達人。
一昨年に公開されたアレックス・ガーランド脚本・監督の映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は、「リアルさを意識している物語」ですが、タル・ベーラの『ヴェルクマイスター・ハーモニー』は「実存」に触れてくる。
「いまの世界は、我々自身がつくったクソだ」というのはいいですね。「クソ○○」とか言ってる人文系の人のような、「自分はそこに一切含まれないと思っているようなキングオブクソのような自己肥大者」ではなく、「自らもクソの一部なんだ」という自覚があるところがいい。
とはいえ、自分たちの社会運動の問題点を多くの人たちから批判された時、そういった不利な状況の時だけ、「人間なんてみんなクソだ」と言って、「どっちもどっち」に持っていく人もいますが、
それは全く誠実さを欠いた自己正当化の方便です。
「どっちもどっち」化して責任を曖昧にする、「自分たちの加害性」を相対化して逃げる、「共犯性」を“免罪符”として使う、このような抽象化による責任逃れは、 「自分たちの活動の問題点」という「個別のクソさ」の指摘から逸らして「全体の問題」にすり替えるのです。
「個人」の言動への批判に対してそれを「属性」への批判にすり替えて「○○を差別するのか」に置きかえるレトリックと同じく、自己防衛、自己正当化、責任逃れなんですね。
つまり、「共犯性の自覚」には誠実さ、謙虚さ、と「引き受け」が必要。
この構造は、高学歴人文系が共有する規範意識にも通底しています。理念としての人文学的理想やアカデミック・リベラル的良識は普遍的な価値を掲げるものの、実態としてその思想はしばしば階層的な秩序に変質しています。
たとえば欧米出羽守専門家のように、海外留学できるほどの経済的余裕を持つ者たちが、自己の倫理的優位を根拠として、社会的正義の基準を独占します。
「正義」や「多様性」は、いつのまにか上流階層の余裕や特権の別名となり、生活を支えるために倫理的余裕を持たない人々は「意識が低い」として叩かれ、彼ら自身を「上」に位置づけるための道具となります。
ここで語られるのは、道徳ではなく「文化資本化された倫理意識」です。この規範意識は、平等の言語を装いながら、実際には道徳的階級社会の維持に貢献し、最終的には知的階層が自らを権威として立ち上げるための仕組みとなっています。
言葉の上では普遍性をうたいながらも、実際にはその規範が特権的なものとなり、倫理的余裕を持たない人々を「下」に置くための権威的構造を作り出します。
こうした知識人の言説空間では、「正しさ」は文化資本によって所有されます。人文学的理想が、空間的にも経済的にも特権化され、「正義を語る者」と「正される者」の間に明確な線引きが行われるのです。
このとき倫理は共同体的なものとしてではなく、「上からの啓蒙」として作動します。理念と実態の乖離が進むほど、言葉は現実の世界から離れ、言説の空気はますます密室化していきます。
いま、商業的な人文シーンは、「本は読みたいが読めていない」という劣等感につけこんで、本を読むの大事ですよと喧伝することが最後の仕事になっている。それは出版社や書店にとって短期的に都合がいいのでもてはやされているが、そんなモデルには先はない。やっていることは無自覚な焼け畑である。
— 森脇透青 (@satodex) January 10, 2026
AIがさらに進化する中で、人間はますますそのテキスト処理能力に太刀打ちできなくなるでしょう。優れた文章の生成に関して、AIはほぼ確実にその役割を担うようになります。
その結果、人々は逆説的に、AIが再現できない「身体性を持った文章」や、非アカデミア的な「生々しい言葉」に回帰していくのです。人々は、AIの冷徹な計算によって失われた感覚や経験を求めて、身体性を重視する文化へと向かうでしょう。
古典文学は、身体的な危険や生の不安が深く結びついた時代に生まれました。その作品に刻まれた恐怖や欲望、時間、死のテーマは、単なる抽象ではなく、実際の身体的経験に基づいています。
このような「感覚の層」をAIは理解できません。AIは意味を処理するのが得意ですが、その感覚的な重みには触れることができません。
また、過去の文学には、AIが生成する文章にはない「身体の癖」や「生の歪み」があります。だからこそ、未来の読者は、AIでは再現できない厚みを持った古典に向かう流れが起きるかもしれません。
その場合、私たちは二つの世界を目にすることになるでしょう。一つは、身体と生の摩擦をそのまま刻み込んだ古典文学。もう一つは、「AI的創造性」とほぼ同質なテクストの安全圏で「人間らしさ」を装う現代人文学です。
しかしポスト普遍主義的秩序の中で破壊されていく世界の中で、人々は再び「身体から立ち上がる創造性」へと回帰していくでしょう。そして古典への回帰は、人間の厚みを確認する行為であり、同時に現代アカデミアの皮肉なAI化を照らし出す鏡でもあるでしょう。
