知・情・意のバランス異常

 

今日は「知・情・意」をテーマに、そのバランス異常や、思考的理解と的理解の違いについて簡単な補足記事でを書いています。

これに類似したテーマの記事は以前にもいくつか書いていますが、現代社会は情報が共有化された効率とスピードの世界なので、情報を得、思考で理解すれば「それを知った・理解した」という事務処理型の思考人間・知能至上主義が蔓延しています。

 

単純な観念的・技術的な対象・物事であればそれでもいいのですが、理解の「対象」となるものが何でもかんでも単純な思考的理解・情報処理出来るようなものばかりではないわけです。

そして、「知・情・意」の三つの働きが調和バランスしている時の「理解」と、それぞれがアンバランスな状態の時の「理解」では、「同じひとつの現象・現実」を見ても、その「深さ・奥行・広がり」は全く異なるでしょう。

これはカント的な「知・情・意」の捉え方と全てが違うわけではないですが、結構異なります。

 

カントの『純粋理性批判』では、人間の認識が「現象」に限定され、「物自体」には到達できないという点が強調されています。

知性は科学的知識や論理的思考を生む能力ですが、カントはこれを理論的認識に限定し、知性だけで人間全体を説明することはしませんでした。

また、認識の枠組みとして「感性」「悟性」を区別し、感性が五感から情報を受け取り、悟性がそれを概念化する役割を果たすとしました。

『判断力批判』では、美的判断における「共通感覚」や主観的な快・不快の体験が議論されています。カントは、美的判断が主観的でありながら普遍的妥当性を持つとし、「共通感覚」に基づく調和を重視しました。

しかし、倫理学においては感情や傾向性を慎重に扱い、道徳的行為は感情ではなく理性的な義務に基づくべきだとしました。このため、感情の価値は美学や経験的側面に限定される場合があります。

カントは、意志を単に感情や欲求に流されるのではなく、理性によって定められた普遍的な道徳法則(定言命法)に従って行為する能力として捉えています。

つまり、意志は自律的に道徳法則を自分自身に課し、その法則に基づいて善を選択する働きとされています。

また、カントはこの自律的な意志こそが真に自由な存在であると考え、外部からの影響(例えば感情や個人的な欲求)に左右されず、理性に裏打ちされた判断を下すことが倫理的に価値があると主張しています。

カントの哲学では理性が中心であり、特に道徳法則や自律的意志が重要視されています。

 

現代社会は「結果・数字・印象」が重視される成果主義・知能至上主義の効率化社会」で、西洋的な合理的思考がメインですが、それに偏ることによって、感性・全体的なものが見落とされ「知・情・意」の豊かさやバランスを失うがことはむしろ多い。

そして「理性は感情を押さえつけ抑圧しコントロールする高次機能であり、感情は原始的な劣等機能」というような思い込みも見かけますが、そういうわけではありません。

理性は感情と組み合わされないと適切に機能しない、というだけでなく、感性の働きの表れのひとつである感情は、決してなくしてはいけない人間にとって大事な要素なのですね。

 

「30秒で読む「意思決定の脳科学」 より引用抜粋

脳外科手術で「感情的部位」を失った人は、一分の隙もない論理的な人間になるわけではなく、「決断を下せない人」になる。意思決定プロセスを脳科学で説明する。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、人間の感情と理性の関係を「馬と御者」に喩えた。近代の心理学者フロイトは、「本能的な欲求(イド)が自我(エゴ)によって抑制される」という概念を打ち立てた。つまり、ずっと以前から、理性と感情は対立するものと考えられてきた。

こうした見方を神経科学的に解釈すると、的確な判断とは、合理的な前頭葉が、生物進化の早い段階に出現した、感情をつかさどる脳の部位(脳の奥深くにある大脳辺縁系など)における「動物的本能」をコントロールするものだと思われるかもしれない。

しかし、実際はかなり違う。感情的な情報インプットが生み出す「動機づけ」や「目的」がなければ、効果的な意思決定は不可能なのだ。

脳神経科学者アントニオ・ダマシオの患者「エリオット」を例に取ろう。有能なビジネスマンだったエリオットは、脳腫瘍を切除するための外科術を受け、脳の「眼窩前頭皮質」を切除された。

これは、前頭葉と感情を結びつける部位だった。その結果エリオットは、映画『スタートレック』に登場するミスター・スポックのような、感情欠落した人間になってしまった。

しかし、感情を持たないからといって、一分の隙もない論理的な人間にったわけではなく、むしろ決断を下せなくなってしまったのだ。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 30秒で読む「意思決定の脳科学」

 

上記に引用の記事にありますが、「理性と感情は対立するも の」というのは、西洋二元論の哲学・思想・キリスト教の世界観、フロイトの精神医学の本質に見られるものであり、

 

精神性と動物的本能は対立するもの」「心と体は対立するもの」というような、存在理解の本質の部分に見られ、私はずっと前からそれに限界や違和感を感じていたのですが、

 

東洋的なエッセンスを取り込んで融合化したユングにしてもそうですね。参考になる部分や、理解が重なる部分ももちろん多々ありますが、そうでない部分も多々あります。

ユングは、東洋思想や神話、夢分析などを通じ、無意識の普遍的側面やアーキタイプを探求し、自己の統合的理解を求めるアプローチを採りました。

彼は意識と無意識、内面と外界の対立を乗り越えようとしましたが、西洋の伝統的な二元論から完全には抜け出せなかった部分も残ります。

実際、ユング自身が「西洋文明は外界に目的を見出し、東洋文明は内面的な神秘性を重視する」という点を示唆しているように、彼の理論にはどこか西洋的な分割モデルの影響が見られます。

どうも彼らは「自身を分離して一方を支配抑圧しなければ気が済まない人たち」のようです(笑)

 

一方、東洋思想―たとえば仏教の「諸行無常」や「因縁」の教え―は、物事を固定的な二元論ではなく、常に変化し相互依存する一連の流れとして捉えます。

ここでは、理性と感情、精神性と本能は必ずしも対立する存在ではなく、むしろ互いに補完し合い、調和や循環の中で展開されるものとして理解されます。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました