今日は急遽時間が出来たので、久しぶりに長い分析記事になりました。テーマは「公正世界仮説」「自己奉仕バイアス」を記事の先頭に、
そして「怒り」の多面性と役割と「怒りの昇華」、そして自己愛性のパーソナリティの未熟な「怒り」に関しての考察記事を書いています。(記事の合間にテーマに関連するTED動画を幾つか紹介しています。)本質的には新しい内容は少なく、今まで書いたテーマの補足記事になります。
「知・情・意」はバランスが必要です。「知」ばかりに偏って、情動・情感の深さ・豊かさがないと、頭でっかちで潔癖症的な理屈屋になったり、デジタルで物事の表面しか見れないので、独善的になったり、キレやすい人格になったりもします。
理性と感性が共に必要というのは、「知・情・意」をそれぞれに豊かに発達させながら同時にバランス・調和させていくことが大事だと感じているからです。
ですが世界の姿は不条理であり、それは心理的・物理的な「力」の優位性を持つ「強者の都合」で、幾らでも捻じ曲げられる不調和の世界です。それは人の心・精神を歪め不調和にさせてもいます。
世間一般で言う「正しさ」「悪・善の価値観」だって、「より優位な側」の物差しで測るように方向づけられています。
たとえば何故イルカやクジラだけが可愛く、牛や鳥や豚は可愛い動物ではないのか? 牛や鳥や豚は馬鹿だし可愛くないから大事に扱う必要はない、ということか?⇒ 「ブタは知的な動物」米科学者が論文発表
インディアンや黒人に対してしてきたことも、白人ほど可愛くないし賢くない感じがするから「人間以下の扱い」をしたのですか?誰が決めたんですか、そんな線引きを。
「ジェームズ・ホワイト・シニア: 家を借りるのさえ苦労した」
53年前、ジェームズ・A・ホワイト・シニアはアメリカ空軍に入隊しました。ところが彼がアフリカ系アメリカ人だったために、家族が住む場所を近くに見つけるまで驚くほど苦労したのです。
彼は力強いストーリーを通して、「日常的な人種差別」の体験を語ります。さらにその体験は、彼が孫に教えなければならなかった、警察官との関わり方に影を落としているのです。
何故、「結局見つからなかった大量破壊兵器」という冤罪的理由による戦争で、「平和で穏やかな暮らしを望んでいる無実な一般市民」を何万人も無慈悲に殺しまくる行為は「正義」で責任を問われず、
それへの怒りと反発行為だけが悪のような対象になるのか?何故、同じ人間としての罪の意識はそこにはないのか?何故、神の名のもとに、隣人を愛せよと言いながら隣人を殺しまくり、奴隷を生み出し、人種を差別し、無垢な少年を犯し、綺麗な建前の構築だけには必死になるのか?
その自己欺瞞への気づきはないのでしょうか?
〇 バチカンNo.3の「聖人」、性的虐待で起訴
〇 聖職者によるレイプ、被害者数千人…告発の連鎖がオーストラリアを揺るがす
〇 カトリック少年合唱団で性的虐待と暴力被害547人 独 調査報告
〇 聖職者による性的虐待、ローマ法王が公式謝罪
人の心を破壊するものは テロよりもむしろごく日常の中にある暴力と搾取のシステムです。それは一体どれだけ多くの悲劇と血を流してきたでしょうか? 人間の現在、そして歴史を見れば自明です。
そして自らは反省なくそのままで、目立つ劣位な対象だけを叩いて、善や正義や愛を語るマジョリティ側の人々の姿こそ不条理な世界をそのままにしている本当の原因のひとつなんですね。
「公正世界仮説」
最初に戻りますが、つまりそれは世界の姿・人間の姿が不条理であり、心理的・物理的な「力」の優位性を持つ強者の都合で幾らでも捻じ曲げられる不調和の世界に私たちが生きているからそうなるのです。
ですが、立場的に弱い一般人は、自らもその不条理な力学に同化し、あるいはそれに従うしかない現実の中で、「世界は人は公正であるべきだ」と主張し抵抗もするんですね。これは必要な事です。ですが「世界公正仮説」の心理は様々に悪用されることもよくあります。
例えば強い立場にある側が、「悪いのは失敗したのはそうなる悪い要素が本人自身にあったから、そして成功したのはそれだけの良い要素が本人自身にあったから」と短絡的に決めつける時にも「公正の論理」が使われます。
ですが成功するために必要なものは、一般に善や徳と言われるものとは無関係に達成されることも多々あり、逆に「負の力学」でも充分可能であり、実際に無意識的・意識的にそれは多用されているのです。
誰かの悲劇が誰かの喜劇を支えていたりもよくあることなのです。なので因果関係としてはかなり不十分にしか成立しません。
「自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ」より引用抜粋
自分は自分の力で頑張ってきたんだという強い自意識があるから、社会的な弱者に対して「他人のせいにするな」と平気な顔で言い放ってしまう。
自分が成功したのは自分ががんばったから、そして、他人が成功しなかったのは他人ががんばらなかったから。あまりにも単純で、あまりにも狭い。
物事の複雑な因果を一つの偏狭な図式に当てはめて理解し、それによって成功者としての自分の過去に肯定的な価値を与える。今日もまた一人、また一人と、成功者たちが「自己責任論」のダークサイ
ドに墜ちていく。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 自己責任を求める成功者たちにつけるクスリ
「良い人は報われ、悪い人は罰されるはずだ」という、「公正世界
仮説」は勧善懲悪の世界観や人の自然感情でもあるのと同時に、
「悪い人は罰される」=「罰されてる、あるいは不運・不幸な人は悪い結果に値する悪い要素を持った問題のある人である」ともなり、
「良い人は報われる」=「認められている、あるいは成功し上手くいってる人は幸運に値する良い要素を持った問題のない人である」というバイアスにもなりやすいわけですね。
これが宗教の場合だと、例えばカルマの理論や功徳の理論、「天国と地獄」なの観念によって、現状の優劣を前生や死後の善悪の結果として「不条理は公正」としてのつじつま合わせをするわけです。
かつてユダヤ教徒は病人や貧困層などの弱者は「穢れた罪人」として扱ったように、現代でも「自業自得の迷惑なお荷物」のように扱い「努力が足りないから貧困になった」「自業自得で病気になったんだろう」というような一方的な目線で語る人たちが一定数存在します。
まさにかつてのユダヤ教徒的な「過剰な自己責任論」ですね。
また全てを個々の心の問題に帰する心理主義は、社会的な問題・外部の環境の問題から目を逸らし、本人の問題に全的に還元できないことまで過度に自己責任化する可能性があり、その方面からの分析は以下の二つの外部サイト記事・PDFを紹介しておきますね。
〇 「心理学主義化」する新新宗教の教説
〇 臨床心理学という心理主義への批判
ただ私は心理主義が全部おかしいと考えているわけではありません。相互作用・相互関係性や外的な干渉による悪影響を考えずに、全てを個人に帰結するのが極端であると考えているだけです。
〇 お前は心理主義者だと批難しあう哲学者たち Kusch (1995)
もちろん、悪いことばかりやって当然の批判や制裁を受けたり、デタラメな無駄使いや放蕩の結果に生活苦に陥る人とかもいますし、逆に誰もが納得する素晴らしい活躍や結果を出して高い評価や賞を受けたりも当然ありますが、今回はそういうことをテーマに書いているのではありません。
「怒りの昇華」
「不条理・理不尽=公正」とすることは最悪です。何故なら現状を変える力を根本から奪われ、現状での強い側に支配されるだけの状態になるからです。
また現実にある個人的・社会的問題などを解決する際に、それが不条理・理不尽の力学によるにもかかわらずに「公正な結果」とするなら、何も解決されないまま先送りにされるからです。
現実の悲劇を解決するのは抽象的な理念や祈りではありません。それは回避不可能な場合の一時的な心理的安堵感や気休めにはなるかもしれませんが、本質的な現実問題の解決にはなりません。
人の自然感情を否定せず、同時に理性的で具体的な明瞭な行動と意志の力が現実問題の解決に繋がります。
「怒りで世界に平和をもたらす方法」
インドの上級カースト出身の若者が、どうやって8万3千人もの子供達を奴隷労働から救い出したのでしょうか?ノーベル平和賞受賞者のカイラシュ・サティーアーティが提案する、より良い世界を作
る為の予期せぬアドバイスとは、「不条理な事に対して憤れ」です。サティーアーティが怒りから生まれたアイデアを行動に移し、生涯をかけてどのように平和に尽力してきたか、力強く語ります。
TED ⇒ 怒りで世界に平和をもたらす方法
世の中では、良い人も罰されたりいじめられたり苦しめられたり、悪い人も称賛されたり社会的成功を得ることも多々あるし、たいしたことのない人物でも成功し、優れた能力を持っていても失敗することもあります。
そして「自己奉仕バイアス」という社会心理学の専門用語がありますが、これは「成功は自分のおかげ、失敗は人・環境の責任」という自己中心的な考え方です。
これは「強い側・優位な側」が持ちやすい思考・感情でもあり、「正」を自身とし、「負」を他者とすることで、「弱い側・劣位な側」に問題を押しつけてストレス処理役をさせるんですね。
この「自己奉仕バイアス」に関する過去記事がありますので参考にどうぞ。 ⇒ 悲観と楽観 「原因」の外的・内的帰属のバイアス/ 帰属のエラーと責任帰属
とはいえ、「失敗は人・環境の責任」というのは、強者・優位な側の責任転換として悪用されていても、現実問題として弱者・劣位な側の置かれている立場では「人・環境の負の作用」が強く作用している場合があります。
また社会は一見すると誰にでも権利と選択肢はあるように見えるけれども、実際は機会は均等ではなく、生まれた場所、またタイミング的に良い出会いや不運な出会い・突発的な出来事などの確率的な偶発的な運の良し悪しに大きく人生を左右されたり、
案外そんなことで人との格差がついたりしているだけなのに、個人の人格や能力の問題に過剰に責任転換されていたりすることもよくあるわけです。
「私たちがどのように子供たちを大学―または刑務所に送り込んでいるか」
米国では、大人へと成長する旅路で2つの組織がティーンエイジャーを導きます。大学と刑務所です。社会学者のアリス・ゴフマンは、6年間を問題を抱えたフィラデルフィアの地区で過ごし、
どのようにアフリカ系アメリカ人やラテン系のバックグラウンドを持つティーンエイジャー達が、刑務所へと転落の道を辿っている様子を直接目にしました。
その道は、時には比較的些細な違反から始まることもあるのです。彼女は感動的なトークの中で、「なぜ私たちは手錠と懲役しか彼らに与えないのか?」と問いかけます。
例えば中国の「戸籍格差」などは以前から巨大な社会問題でもあり、ようやく今頃そこにメスが入ろうとしています。億単位の人々が社会的奴隷のような扱いを受けているのです。⇒ 中国人が逃げられない、「戸籍格差」の現実
そして外的な関係性・干渉の作用だけでなく、個人としての能力・知性・体力(健康状態も含む)・感性・知識・情報や「身近な人間関係」も均等ではありません。つまり内外の組み合わせは多様です。
アドラー的に「負の状況・環境でも出来る人は出来る」とか、そういう比較的少ない成功例を持ち出して「だからお前にも絶対に出来るはず」だから「全て自己責任の結果」という導き方は、一概には言えないんですね。
確かにこの考え方も一部有効で、それが当てはまる場合もありますし、またそのアプローチでうまくいく人はそれでいいでしょう。このブログでも、より発展的な自己実現へ向かうためのポジティブアプローチも紹介してはいますので。
「あなたはどんなに努力しようが絶対無理です」と言われるよりも夢や希望がある感じがするし、ポジティブ系の人にとっては相性はずっと良いでしょう。
そして人間の有する知性・感性がフルに発現できれば、確かに様々なものを生かして、困難極まる逆境でも超えられる可能性は高まります。それどころか大成功すら出来ることもたまにはあるでしょう。ですがそれはあくまでも確率的に少なく「条件つきの事例」でもあるわけです。
「似たような苦難にある人たち」だからといって、その個々は全く同じ環境・状態・現実なのではなく、内外の状態やその組み合わせは個々に異なり、
そして、成功者や勝ったものだけが世を動かしたり人や社会を支えているわけではありません。人は「弱者や光のあたらない影の世界や地味で味気ない感じのもの」にはあまり目がいかず気づきませんが、人や社会や世界を本当に支えているのは、多くの場合、圧倒的に後者なんですね。
「自分で選んだんだと自責するように思い込まされている」だけで、実際は「社会・現実の右も左もよくわからなかった若い頃」に、強者側・多勢側の巧みな心理操作や組織・コミュニティの集団の同調圧力によって、
「無意識的にその方向へ持っていかれていた」ということも多いのですが、気づけばそのシステムにどっぷり飲まれ同化しがんじがらめになっている人も多く、その役割が過剰になることで心身を壊していることも多いわけです。
また自身がそうされたことを他に投影し、今度は自分が下の立場の人々に同じことをする、という悪循環が形成されるわけですね。これもまた「引き継がれていく毒親の悪循環」と同質の心理的現象のマクロ版なわけです。なので、やはり個を重視したネガティブアプローチも必要なんですね。
「怒り」の多面性と役割 「怒りの昇華」
前回の記事でも書いたように、アドラー流に考えれば、「怒ること」=「相手を従わせること」あるいは「従わせたい感情」とも言えるでしょうが、
「怒り」だけでなく「喜怒哀楽」の感情とその表現全てが、そのような一面的な意味を持っているわけではなく、多面的な意味を持ち、また「怒りは不必要な感情」というわけではないんですね。
私はむしろ、「喜怒哀楽」の自然感情こそ人間らしさのべースであり、それを無視したり抑圧する場合もまた、不調和・偏りを生むと強く感じます。
と同時に、「喜怒哀楽」の自然感情が、自我運動としての内的・外的なバランスを欠いている時にもまた、様々な問題を内外に生じさせることも事実です。
つまり「怒り」は「いかなる場合も不要・有害」などとは言えず、逆に「いかなる場合も必要・有用」とも言えない、その使い方や表現の強弱・バランス次第で変わるものに過ぎないわけです。
「イスマエル・ナザリオ: 少年の僕が拘置所で学んだこと」
イスマエル・ナザリオは10代の頃、ニューヨークのライカーズ島拘置所に送られ、独房に監禁されて300日過ごしました。全て有罪を宣告されるより前のことでした。彼は現在刑務所改革の主唱者として、アメリカの拘置所や刑務所の文化を変えるために活動しています。それらの施設では、少年達がしばしば想像以上の暴力にさらされているからです。ナザリオはぞっとするような体験談を語り、拘置所にいる少年達を傷つけるのではなく助けるための方法を提案します。
自己愛性のパーソナリティの未熟な「怒り」
例えば怒りは「自己正当化」の感情=「自己防衛」でもありますね。そして記事の最初でも書きましたが、「不条理・理不尽」なものに対しての自然感情としての怒りの反応は問題ありません。
そう感じることは「健全」な自然自我の役割のひとつです。いえむしろ怒るべきことに私たちは怒っていいのです。ですがその表現の仕方や強弱・バランスは、全体と調和した適切なものであるべきなんですね。それが「健全」な社会的自我の役割のひとつです。
また「自己欺瞞・コンプレックス」の裏返しでの、より強く反動的な防衛感情である場合もあります。例えば自己愛性のパーソナリティの人は、自己価値感への脅威を感じる際の自己愛的な「傷つき」と、その自己愛的防衛による自己愛憤怒・復讐感情が強い傾向がみられるわけです。
またそこには「完全に良い」「完全に悪い」を極端に区別する防衛機制である『分裂』が関係していることもあります。そのため自身は傷つきやすいのに、他者に対しては容赦なく執拗に傷つける言動が見られます。
そして心・精神が未熟な状態で理解力も不十分であり視野も狭いにも関わらず その意識内容に比例するかのように謙虚さは不足し、自己完結した自分中心の決定論を盲信・断言し、
その姿そのものが不調和でしかないにも関わらず、あたかも「愛するが故に あるいは正しいことのために怒る正当な攻撃的表現」のようにすり替えて、「善・愛・正義」などの言葉や観念を盾にして、大げさな装いで正当化(言い訳)することもあります。
そうやって自己の怒りを正当化するために、または自己欺瞞を誤魔化すために、あるいは無自覚な自己愛活動を維持拡大するために、周囲の同調や共感を過剰に得ようとしたりしますが、
結局のところ、そのような人々の反応もやり方も過剰・一方的で短絡的で思慮深さがないので、やがて激しくパッシングされます。
ですが勢いに乗ってるときは、過剰・一方的で短絡的で思慮深さがない「怒りの主張」は一時的には共感を呼ぶこともあり、その一部は集団ヒステリー化することもあります。
そこでさらに突き進めば、そもそもが分離的な不調和の自我運動の膨張に過ぎないため、無慈悲な結果に向かうだけで、本質は何も解決しないのです。
熱が冷めた周囲は、やがてその自我運動の本質にも気づき、その結果その運動に火をつけ扇動した人々はパッシングされ「劣勢」に追い込まれるわけですが、
「劣勢」になった時の自己弁護にも必死ですし、「他者の足りない部分や問題点」を見つけて何倍にも拡大して大騒ぎして攻撃するのが大得意なのです。
そのように「無意識の加害者」である時は絶好調なのですが、「自分自身」の内的な不調和や自己欺瞞の姿には気づくことも出来ないし、気づきたくもない無意識状態であり続けるのです。
そしてそこを周囲に突かれると、逆切れしたり、その元気もなくなると、攻撃が内面化に向かい抑鬱化するわけですね。そしてその抑鬱化したことも被害者的な解釈しかしません。
それと同じか遥かにそれ以上のことを、他者に対しては徹底的に容赦なくしているにもかかわらず、自分がされたら速攻で過剰反応し、逃避から防衛・攻撃に転じるだけなんです。
「自分はいつも正しく善・優の側、あるいは真実を知っている側であり、そしてそれにも関わらず理不尽な被害を受けた純粋被害者だ」と思い込んでいるから、自身を顧みることもなく、当然、学びも気づきもないんです。
思考力・言語化能力の高いタイプの場合は議論・詭弁合戦で立場の維持・逆転=「イニシアチブの奪い合い」に躍起になり、相手の価値を落とすための粗探しばかりしますので、その言動は建設的でなく生産的でなく何の創造性もないのです。
まぁこれは一部の「宗教者・学者・専門家・政治家・思想家・文化人・有識者」などにもよく見られる日常的光景なので、特筆には値しませんが、相手より優位でいることでしか自信・信頼を保てないような本質しか持っていないから、そういう不毛なことばかりするのですね。
シンプルに、それは結局「不安・自信のなさ」の裏返しなので、その防衛反応として妙に傲慢で断定的な言動になって相手を過剰に否定したり威圧しようとしたりするのです。
その自我運動の補強・肯定のために「社会的立場の優位性」や「多数派の優位性」が利用されたり、あるいは「怒り」などの強い否定的表現が防衛として攻撃として利用されるというだけなんですね。
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