まだブログお休み中ではあるのですが、少し時間に余裕が出来たので、記事を書きました。ブログは来週以降に再開の予定です。
このようなブログを書いていると、読者様からの様々な問いかけが届きます。私自身の使える時間や体力の限界、そして問いかけの内容によって全てに満足のいく対応は出来ませんが、
私に出来ることのひとつが「記事を書くこと」なので、時間がかかっても、問いかけには出来るだけ記事で応えていきたいと思います。それをもってお返事とさせていただきますね。
今日は幾つかの歌と詩の紹介と、「どうやっても どうにもならない やりきれない時の中で」をテーマに記事を書いています。
まず以前にもブログで紹介した「Uru」さんの歌う「風の強い日」の紹介です。彼女の声は澄み切っていて、そして声がハートに響きます。
この曲は 歌詞は若い人向けでしょう。ですが私は歌詞以外に、「声の波動とゆらぎ」の質や身体に響く感覚も同時に感じつつ聴いているので、そういう面から見た時、女性や若い人に限らず 彼女の声は素晴らしい癒し力を持っていると感じます。
風の強い日 / back number ピアノで歌う Uru
「風の強い日」と言えば、 The Street SlidersのHARRY(ハリー)の歌う「風が強い日」も好きですね。The Street Slidersは、十代の頃によく聴いていました。
「one day」と「風が強い日」が特に好きですね。ハリーは先に紹介の「Uru」さんと対照的に 低いしゃがれたハスキーボイスで、彼らの歌詞やメロディには、今聴いても心のどこかに響いてくる、懐かしくも生きた詩のリアリティがあります。
HARRYのソロになってからの曲では「Midnight Sun」が好きですね。 ⇒ HARRY_Midnight Sun PV
◇ オフィシャルサイト ⇒ the HARRY-STATION.com
では次は、以前このブログで紹介したことのある「気まぐれシンガー マリコマリィ」さんのcoverで、【悲しくてやりきれない】です。この方も癒し力が高いですね。
【悲しくてやりきれない】ザ・フォーク・クルセダーズ弾き語り カバー
人によって置かれている状況は異なります。そうなった過程も、そして周囲の環境もそれぞれです。そういう意味で 誰もが自分の深く関わる現実の範囲でしか、 リアルな想像がしづらいのは仕方がないことでもあるでしょう。
私が心身のバランス異常に苦しんでいた時期、それを誰にも話さなかったのは、話しても理解できない、という確信に近いものがあったからです。
そして私が壊れた時、その確信は現実に事実となりました。ですが、そこから回復し、人々がそういう風に在ることもまた仕方ないことであると 今はそうも感じています。
それくらいに それは「そうなってみなければわからないこと」であり、一般的な理解の共有は難しい、想像や推測での決めつけだけではわからない負の経験なんですね。
以下に「やりきれない時の中で」を紹介しています。これは私が十代後半~二十代に起きた心境を詩にしたものです。当時、その長いトンネルは、私の逃れられない運命・宿命のようなものに感じられました。
あなたもわたしもきっと 決して人が思うほど 不真面目に 無思考に 無感動に 無関心に 生きているわけじゃないはず あなたもわたしもきっと 決して人が思うほど 特殊な意識で生きているわけじゃないはず
どうしてこうなるのか? そしてどうしてこういう風にしか出来ないのか? どうして自分を変えられないのか? どうしてあんなことをやってしまったのか? どしてあんなことを言ってしまったのか? どうして私たちはそんな現実を 心を変えられないのか?
きっとそれぞれの場所で 躓き それを笑い飛ばす余裕もなく きっとそれぞれの場所で そのことだけと向き合
うしかない日々の中で 塞ぎ込んでいるだけなのだろう
とても小さな「私」というエリアでさえ 何故私が私であるままで立っていられないのか? 私を守る力さえ私にないのか? そんな堂々巡りの問いかけにも疲れ切って 立ちすくんだ そして現実がまるで巨大な船のように佇んでいる
私はその船に乗船できなかった客のように 不毛な場所に置き去りにされ 大きな船は少しづつ私から遠のいていくように感じていた 船の看板から こちらに手を振る人はいないまま 静かに 船は遠くに消えていくように
不毛な場所で 私はいいろいろ 試行錯誤した 反省し 自問自答し 本を読み 気晴らしをして 走って見たり 飛んでみたり 笑ってみたり 喚いてみたり 沈黙してみたり 感謝してみたり
だけど 徐々に心身の喜びが消えていき 苦しくなった私は もがく以外 に表現出来なくなった
そうすると巨大な船が私のところに戻ってきた だがそれは 私のココロの必死の助けを呼ぶ声に反応した救出ではなかった 巨大な船から降りてきた人々は 私を叩きのめし嘲笑され 踏みつけられ続けた
私の抵抗は防弾ガラスのような心の境界に遮断され弾かれ 私はその外に追いやられた 私がもがく度に 誰かが笑い喜び満足に満ち溢れているような そんな世界に見えた
そんな中で
私のココロで感じられることは感じ尽くし 私のアタマで考えられることは考え尽くし 私のアシで向かえる場所には行き尽くし 私のメで見えるものは見尽くし 私のミミで聴き取れるものは聴き尽くし
愚かで非力な私に出来ることは全てをし尽してきたように思ったけれど 私はココから一歩も動けなった そして動くことさえ否定されているようだった
乗船券はなく その資格もないようだった だから私には現実を一歩も動かせないと思った
私はそれでも きっとそんな日はいつか しばらくすれば終わるとタカをくくっていたが 明日は変わるかもと期待をしてみたりもしたし いつかは船から心ある人々が助けに来ると期待してみたりもしたが 何にも起きなかったし 何も変わらなかった
何一つ動いていない現実が ただ機械仕掛けのように無機的な一律のリズムを刻んでいた 私はその現実の音だけを聴きながら 日々少しづつ生命力失い そして壊れていった
とても小さな「私」というエリアでさえ 何故私が私であるままで立っていられないのか? それを守る力さえないのか? ただその諦めの思いが 岩のようにそびえていた
現実に絶望を確信した私は ある時から 完全に切り離されたかのような日常の中で 心の光を求め続けた だが 惑わす者達がハイエナのようにたかってくるだけでそれはどこにもなかった
やがて私は全てを失い ある時は住む家さえもなく 公園で夜を明かし 一人で見た都会の夜の空は どこまで
も漆黒で 星はどこまでも遠かった
その漆黒の空を見ていると 世界中の絶望の今を過ごす存在達のココロが シンシンと雨のように降ってきた
だが 何故かその雨は とても暖かかった 私の絶望など 世界中の絶望の重さ・深さと涙に比べれば 吹けば飛ぶ一枚の羽毛のようなもの
でもその雨は 私を打ちつけて責めるようには感じなかった ただ 「みんなココにいるよ」 そういっているかのようだった それは 私の瀕死のココロが まだ立ち上がれる力を持っていることを感じさせた
家もなく 寝床もない 公園での私の夜は それを目撃した人々から見れば 触れてはいけないレベルの絶望の人生に映っていただろう だが漆黒の夜空と感応した瞬間 そのつながりは 私を確かに勇気づけていた
その時 私は悲しみはなく 漆黒の空の下自分の人生の事では もう泣いていなかった
こんな風にしかならなかったけど 私はココからしかスタートできないのだから ココがスタート地点 それだけが私の道 届ける宛のないつぶやきは 自分の心の中でこだまするだけだろう でもまだきっと何とかなる気がする
でもそれすらないとき どうすればいい? そしてそれすらない中で 心優しく生きている存在がいる 八方塞がりな孤独な人生の中で 生の輝きに気づいている人もいる
自らの心の力とその光を失っていない人々が確かに存在する そして逆に わたしよりも遥かに多くを有しているように見える人々が 変化の波で訪れた絶望の中で 自らの心の力と光を見失っていくこともある
人々は何故 自分がなれもしないような者を仰ぎ見ることしかしないのだろう? 何故、周囲と同じようでなけ
れば駄目なのだろう?
そんな人々の在り方を見つめながら 自分と他人を比較して嫉妬したり落ち込んだりばかりの日常の中で 世界の影で虚無の中で 不毛の中で 雨に打たれながらも ただ力強く咲く存在に感応し 私は少しずつ息を吹き返していった
それは私自身の心の内奥でいつも静かに輝いていた 私自身が目を背けない限り それはそこに在り続ける
未来はわからない でもね それはわからないままでいい 視界の悪い茨だらけのけもの道を ただ今を大切にしながら歩み続けることが出来れば それでいい (終)
今回のブログ記事は前半が悲しみ・憂いを感じる歌・旋律の紹介と重い内容の詩になっているので、気分転換に、片平里菜さんの「煙たい」と「My Way」のクラシックギターのトゥルメンタルの動画を続けて紹介します。
片平里菜さんは曲や声がYUIに少し似ていますが 声のゆらぎの質は全く異なりますね、YUIの声は陽のパワーが凄く強くて、片平里菜さんはもっと陰性で柔らかい感じです。
「My Way」は誰でも知っている古典的名曲ですが、たまに聴くとやっぱりいいですねぇ、色々な意味で この曲の旋律は素晴らしいです。
片平里菜 「煙たい」 Music Video
My Way / Comme d’habitude – Spanish/Classical Guitar Instrumental version
今から見れば「酷い躁鬱状態」にあったあの頃の私は、「どうにもならない時」の中で生きていました。それは終わりも出口もないと感じられた無限ループのような時間でした。
まだネットもSNSもなかった頃で、私はこの時期の苦悩はその当時は誰にも言わなかったし、今でも知ってる人は極少数です。コトバや態度では辛さを表現せずに 周囲にはそう見せずに生きていました。そして結局持ちこたえられなくなり完全に壊れていった、というわけですね。
私の「苦悩の時期」は「その時の心の状態」は殆ど誰も知りませんが、「壊れた状態」という最終結果の「点」だけは、それよりはやや多くの人が知っています。
そして「何故そうなったか?」はその後も殆ど目を向けられず理解されることはなく、私自身もそうなるまでの過程を含めた様々な思いを沈黙して誰にも話さなかったため、ただ「負の結果」の印象だけが残り、それへの人々の反応だけがメインだったように思います。
私自身はもうその状態はずっと昔のことで、そこから回復し、様々な問題を解決して今を生きているので、変えられない過去は過去のまま理解されないままでいいと思っています。
ですが昔の私と同じような あるいはどこか似た苦難を、「今」まさに生きている当事者の人々にとっては、それがリアルな現実でしょう。そのようなリアルな現実が理解されないままでいい、と私は思っていません。
コメント