行動主義心理学・認知心理学・認知科学  「科学的」と「科学」の違い  

 

今年からは「行動主義心理学」をブログカテゴリーに新しく追加していきますが、今回はその序章として、これまで扱ってきた「深層心理学、験心理学、発達心理学、認知心理学・知科学」主義理学」の違いを整理しておきましょう。

ここでまず先に、湯川秀樹氏の名言を紹介しますね。

湯川秀樹の名言

ico05-005 現実はその根底において、 常に簡単な法則に従って 動いているのである。 達人のみがそれを洞察する。現実はその根底において、 常に調和している。 詩人のみがこれを発見する。

ico05-005 今日の真理が、 明日否定されるかも知れない。それだからこそ、私どもは、 明日進むべき道を探しだす。

今回は、「目にみえないもの」「目に見えるもの」を科学的見るとはどういうことかを、日本初のノーベル賞受賞の物理学者 湯川秀樹氏「目に見いもの」という本からの引用も交えながら考察してみます。

 

行動主義心理学は「科学的」だが科学ではない

心理学の歴史のひとつ変化の流れをざっくりと書けば、例えば「内観」による「自己観察法」は実験心理学深層心理学での手法ですが、

実験心理学の父であるヴントに代表されるそれまでの「客観的に観察不能な心を研究対象とする」ことに疑問を抱き、客観的に観察可能な刺激や反応を対象とする「自然科学としての心理学」を提唱したのが、行動主義心理学の生みの親である「ジョン・ワトソン」です。

行動主義心理学はワトソンやソーンダイク、新行動主義心理学ではハル、ガスリー、スキナー、トールマンなどが有名ですね。そして行動主義心理学と新行動主義心理学は、行動療法 の理論的ベースとなるものです。

 

ですがこの世には「目に見えなくても存在するもの」で溢れています。「痛み」「喜怒哀楽の感情」は、顔や態度に一切表現しなくても、外から確認できなくても内側には実感されるものとして存在します。

では「」=「自我」という主観の実体は具体的にはどこにあるのでしょうか?それは確かに感じられるものであるにも関わらず、「ハイ、これが私・自我だよ」って取り出して見せれるようなものではありません。

これは「怒り」や「悲しみ」でもそうですね。「ハイ、これが私の悲しみだよ、ここにあるでしょ」って見せれるような静的・固定的な実体はありません。

ですが「人を行為やしぐさ・反応・言動から分析して科学的に結論する」という行動心理学は、純粋には「科学」と言えるレベルではありません。「科学的」というだけですね。

何故かというと、人のある瞬間の「行動・反応」は数学や物理のように完璧、あるいはそれに近い次元で公式化出来るものではなく、それは精神医学でも同様で、外科や内科の治療と同じ科学水準とはいえないのですね。

心理学が扱う現象・対象が「人間の心理」という、物理的・生物学的な因子のみで決まっているものではない形而上的なものを含んだものであり、

個々の「私」の主観の差異だけでなく、社会・文化及び様々な他者の作用等、複雑な要素が絡み合って構成される現象・対象だから、「身体」を客観的に見ることに比べれば定量化が困難な質を持っています。

 

物質や身体それ自体は「在るもの」なので嘘もつけないし欺けませんが、心・精神は「在るもの」ではなく、「私」と同様に「そう感じられるもの」でしかないため、実体そのものを見ることも触れることもできません。

また他者がそれを外部から「このようなもの」と「解釈」しても、=それ自体とはいえません。他者の心・精神はどもまでも他者の心。精神であり、身体のように触れることもできないのです。

例えばもしある被験者が、心理学を熟知していて、「別の人格」のように見せる行動を敢えてとり、それが完璧に演技されていたらどうでしょうか?

その被験者は分析の結果、その行動から推測された人格とされてしまうでしょう。しかし、長期的・多角的にその人を見ている人ならば、それが演技だとわかるでしょう。

あるいは他者は、こちらからかは伺い知れない囚われ事や心配事や身体の苦痛などが生じていて、それに気をとられていて、普段とは異なる行動をとることもあります。

しかし単純に公式に当て嵌めるかのようにして他者の行動だけを見てしまうと、勝手に決めつけてしまうことになります。

また文化や時代が異なれば、「解釈」の基準も変わってしまいます。その人の反応・行動をどう評価するか?どう定義するか?というモノサシそれ自体がそもそも相対的なものなんですね。けっきょく普遍的な解釈は存在しないのです。

このように心・精神というものは多角的にデジタルな点の分析だけでは見えないことが多々あるんですね。

それ以外にも、非常に特殊な観念や経験をもっている人が、通常の人とは全く異なる意外な動機で行動をとったとしたらどうでしょう?

その場合、パターン的に行動から動機を予測しても見落とすことになります。その人を突き動かしている動機が、観察者の推測しうる動機とは全く異なる可能性は実際にあります。

つまり行動や反応などの観察から他者について推測することは、観察者の主観・知識・経験・情報に条件付けられるため、純粋に客観的でなく、科学的な手法ではあっても科学とはいえません。

行動主義心理学は「観察されなければない」とするがゆえに、観察されるものの背景の奥行を逆に見失う可能性がある、というパラドックスに陥ります。行動主義心理学は科学ではなく、これもまた「科学的な信念」の一種ですね。

 

例えばテッド・バンディのような人物は「行動・反応」が完璧に演技されているために、事件が発覚するまで誰も見抜けなかったのです。

ですが、深層心理学・認知心理学・認知科学で複合的に自我の病理を分析すれば、その状態及び原因・過程もある程度は分析できます。

また最近起きた事件である三重・中3少女殺害の犯人も、行動主義心理学で見れば健全な人格ですが、普段の言動分析からは全く窺い知れない自我の病理が存在したわけです。

それは「目に見えない自我という運動」があるからそうなるのです。

「三重・中3少女殺害 「四日市、震え止まらん」 容疑の少年 遺体発見時ツイート」より引用抜粋

(前略)
「優しい感じの子」「人気者」。三重県四日市市の中学3年、寺輪博美さん=当時(15)=への強盗殺人容疑などで逮捕れた男子生徒は野球好きの家族思いで知られていた。1日の卒業式では友人らに笑顔で「また遊ぼう」と約束したばりだった。
(中略)
友人によると、成績も常に上位。同級生の少女(18)は「誰とでも話せる性格で文化祭や体育祭も頑張っていた」。
(中略)
ある少年(18)は「同級生同士、携帯電話のメッセージで『信じられない』と送り合っている」と話し、「(男子生徒は)就職も決まっていた。本当にいいやつで、卒業式では『また遊ぼう』と約束した」。 
(中略)
 中学時代の同級生(18)も「中学時代はクラスの人気者のループで、いつもニコニコしていた。背が高くて優しい子。件への関与が本当なら、信じられない」と語った。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140303-00000067-san-soci

 

このように、「普段見えているものしか存在しない」のであれば、この青年は「良い人」ということで終わりでしょう。

証拠が見つからなければ、そして行為・言動が「外側に見せる形」ではシッカリと制御され、その演技が完璧であれば、一生見破れないままでしょう。

 

では、「行動主義心理学」は無意味で無価値でしょうか?そういうことはありません。有効範囲を限定すれば、部分正確に分析でき有効に使えます。ではここで、湯川秀樹氏「目に見ないもの」からの引用文の紹介です。

物理学の研究法に二通りある。一つは、直接われわれの目にえる事物の間の関係を忠実に辿って行くやり方で、現象論的方法といわれる。

もう一つは、あらゆる自然現象をすべて原子や電子などの相作用の結果と解釈しようとする立場であって、原子論的方法と呼ばれる。

今日では後者のほうが盛んに使われている。ところが原子や子自身は目に見えないものである。顕微鏡でさえも見ることのできないほど小さいものである。

わざわざ、そんなものを相手にする必要がどこにあろうか。流とは多数の電子の流れであるということを知っていてもいなくても、電灯線の故障を直すのに何の違いもないであろう。

現象論的な方法こそ唯一の科学的研究法であって、目に見えい原子の振る舞いにまで立ち入るのは邪道である。すくなくとも、専門家以外には、まったく不必要であるという考え方が一応成り立ちそうである。

引用ここまでで一旦区切りますが、この文には続きがあり、それは後で続きを書きます。

目の前に起こっている現象を合理的に説明できただけでは科学ではないですが、

しかし例えば心理学での実験などで、統計である程度の傾向を絞り込んだり、日常的な一般的な現象の範囲のみに限定するのであれば、日常的レベルでちゃんと有効に使えるではないか?何も不可解で複雑で「目に見えない証明の困難な内因や構造」などを探求することはないではないか?ということです。

認知心理学・認知科学

ですが、悲しみや怒り、痛みは、脳・神経学的なアプローチでば見れば物質的なメカニズムとして観察することも可能です。

そして認知心理学では、知覚・理解・記憶・思考・学習・推論・問題解決など人間の高次認知機能を研究対象とし、脳科学、神経科学、神経心理学、情報科学、言語学、人工知能、などとも結びついて「認知科学」という分野を発達させてきました。

この場合は心理学の手法に留まらず、認知心理学による研究成果に広く基づき、コンピュータの処理モデルを構築する事やそれを用いて人の認知モデルを再検証する事等も含み、意識や感情、感性とは何か?にも積極的に取り組むようになっています。

「精神」「感情」を含む「私・自分」という「自我」総合運動は、物質的なメカニズムとしても観察は可能なのです。

また「無意識」の存在は、その一部が脳科学・認知科学によって、実験で明らかにされています。そしてこれは行動主義心理学と違い「科学のアプローチ」です。

そして「心理」を探求・研究するという学問=「心理学」という意味ならば、深層心理学だろうが発達心理学だろうが行動主義心理学だろうが脳科学だろうが構わないのです。

その有効範囲や適用範囲の区分け上での「分類分け」は必要でも、過剰に別物として区分けする必要はないのでは? と思いますね。

一部の学者には、自らの立ち位置での権威上の相対的な利害関係があって、他の科学同様の学問にしたい、という気持ちがある人もいるのでしょう。かつて精神医学が同じ医学とは扱われなかった時代のように。

ですが私たち一般は「心理」の構造・事実を知りたいのであって、あるいは現実に生活・人生に生かせて役に立つもの・効果のあるものであって、その分析手段が「こうでなければならない、こうあるべき」という学者のメンツ・プライドなどはいらないのです。

「心理」を追及するという学問、それは「人間」を知ることを含む幅広く深く立体的なものです。一部の心理学者だけが「人間心理の何たるかをすべて知っている」わけではなく、

様々な角度の集合知によって総合的にみていく姿勢が大切だと思います。そうでないと多くの見落としや偏見が生まれやすくなるからです。

精神医学の歴史がそうであったように、「科学的」であるものは、その権威の信頼イメージに甘んじると、その過信から視野の偏狭さを生み、過ちをよく起こすのです。

「他者の心理」を学者の権威のみで決めつける傲慢さなど不要です。「心理」というものは心理学者にしかわからないようなものではないからです。

心理学者以上に「心理」を深く鋭い分析をしている一般人など本当に沢山います。それは感性的なものだったり、直感的なものだったり、経験的なものだったり、言語的・方法的に非学術的であっても、そのアプローチによってしか触れられない他者の立体性・複雑性があると思います。

それらの集合知を結集して全体像を捉えていく、というスタンスが大切だと思いますね。今回の記事と関連する過去記事も紹介しておきますね。⇒「行動主義心理学」と「深層心理学」   心理学の可能性と矛盾

それでは、先ほど引用紹介した湯川秀樹氏「目に見ないもの」の文の続きを紹介し、記事の終わりとしたいと思います。

これに対して、われわれが病気にかかった場合に、どうするかを考えてみる。医者はそれを徽菌のせいだという。われわれの目にはそれはもちろん見えないのであるが、医者の言うことは本当だと思う。

そして目に見えない徽菌を徹底的に研究しなければ、この地上から病気を駆逐し得ないことを異議なく承認するのである。

この様に、われわれは医学に関する限り、原子論的研究法の重要性を十二分に納得しているのである。物理学の場合に、どうして同じようにいかないのであろうか。

なるほど徽菌は顕微鏡下でハッキリ正体を見ることが出来るが、原子のほうはそうはいかないという違いがある。しかし、例えば、ウィルソンの霧箱を使えば、一つ一つの電子の通った跡を見ることも可能である。

両者の相違は要するに程度の問題である。今日の物理学にとっては、原子の存在は徽菌の存在に少しも劣らぬ確実性を持った事実である。そして、今日の斯学の隆盛それ自体が、原子論的研究法の優越性を示す最もよい証拠なのである。

結局、原子や電子があまりにも微細なうえに、徽菌のような生き物でもないために、ただ何となく実生活と縁が遠く、役にもたたないものと考えられやすいというだけのことかもしれない。

そうだとするとこんな小さな目に見えない物にも、出来るだけ親しみを感じるようにし向けることが科学普及の一つの眼目であるといっても、あながち我田引水にはならないであろう。

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