今回の記事は、次回以降に複数回に分けて、記事のテーマになる予定のトラウマ・身体・感性アプローチ・東洋的思想などに関する記事の補足のひとつでもあります。
テーマが「負の感情のループとフラッシュバック」なので、ちょっと重い内容なので、まずは以下に紹介の動画の綺麗な癒しのボイスでも聴きながら記事を読んでくださいね♪
負の感情のループとフラッシュバック
人は「自分以外の他者」のこれまでの人生に具体的にどのようなことが起き、何を経験し、どう感じ、どう思ってきたのか、その全てがわかるわけではありません。
ですが、その人たちが投げかける問いかけをただ静かに聴いていると、色々苦しんできたこと・苦戦していることのリアルは伝わってきます。
フラッシュバックは「PTSD」だけでなく、「非定型うつ病」の症状の一つでもあり、また人格障害の中にもこの症状が含まれていることがあります。
PTSDで生じるフラッシュバックは、例えば苛烈な幼児虐待などの生死にかかわるレベルの恐怖、不安の出来事による、普通はあまり起こり得ないレベルの心の傷などであり、より強力なものですが、そのことと今回のテーマに関連する記事は過去にも書いていますので参考にどうぞ。
〇 動物心理学 動物のPTSD(虐待と孤独)とメタ認知の神経回路メカニズム
「非定型うつ病」に見られるフラッシュバックの場合は、離婚・失恋・不快で悪質な人間関係(パワハラ・イジメ)など、まぁ世間で誰もが経験しうる心の傷によるものがメインですが、
その負の作用を受けた期間と強弱、そして状況によって、それが本人にとっては深刻な負のストレス体験として意識に根付いているものです。今回はこの「フラッシュバック」を体験に基づいて、感性的なアプローチからの補足記事を書いています。
苦悩のループのその強さ・深さは人それぞれですが、意識に焼き付いている苦い体験が、ネガティブな感情と共にフラッシュバックされる状態になっている方もよく見受けられます。
そのような場合は、繰り返し繰り返し同じ記憶が湧いてきてはそれに囚われ、簡単に払うことが出来ないんですね。
私は昔、ある種のフラッシュバック状態を経験した時、何をやっても記憶の再生が止められず、そして再生のたびに負の感情がセットで湧き、悶々としていた時期があって、
そして当時はまだマインドフルネスなどは知らなかったし、フラッシュバックという定義すら曖昧でよく知らなかったので、現象と一体化しながら日々を過ごしていたわけですね。
で、まず「フラッシュバックの回数を数えてみた」のですが、何と酷い時は「十五分に一回」というペースで延々と丸一日フラッシュバックする状態でした。
やはりこれは脳が明らかにおかしい、と思って、次は「どうすればこれは止むか」を人体実験してみました。しかし「もういい加減止まれ!」という意志に逆らって、まるで機械のように自動再生が繰り替えされるんですね。
まぁそれがフラッシュバックです。 全く「脳」って腹立ちますね。「何で自分の脳のくせに自分に非協力的なんだ!」 と自身の脳に対して逆切れしたい気分でした。笑
まぁ、このブログで紹介している瞑想やエクササイズなどと認知療法的なアプローチを組み合わせたオリジナルなものを自ら試行錯誤しつつ生み出して対応し、何とか自力で処理しました。
レベルにもよるでしょうけど、トラウマ的出来事での過去記憶に思考・感情を条件づけられ囚われている時は、基本的に「論理的思考」では解決せず、感性アプローチが必要です。
併用するのであれば「論理的思考」も無意味ではありませんが、それのみでやろうとすると、むしろ負の思考ループを強化する場合があります。
何故かと言うと、トラウマ的な負の感情というのは思考よりも深く、思考よりも先に湧いてくる脳の深い領域からのボトムアップ形式でのアウトプット表現であるため、「思考が感情に従う流れ」に持っていかれるからです。
そのような深い部分から湧いてくる感情そのものにアプローチするには、身体を含む感性自体に言い聞かせる必要があり、「思考機能」というのはそもそもトップダウン思考かボトムアップ思考か、などという方向性の質の違いはあっても、
それは思考の適応範囲での思考の運動形態であり、身体の深い部分から湧いてくる負の感情を根本制御するような、そういう役割ではないからです。
なので「思考していることに集中することで気を一時的に紛らす」くらいのことは出来ても、結局その深部では「感情を正当化するため」の「衝動」に自我は突き動かされており、
「論理的思考」をしているように見えても実は「負の感情の合理化・正当化」に思考が流され使われてしまうのです。それによってますます負の感情を補強するわけですね。
フラッシュバックは「恐れ」「怒り」「悲しみ」などの感情エネルギーの未解放がメインで、それが行き場がなく「そのまま」では「解放されない」「解放できない」状況下にあり、かといってそのエネルギーを何か別の形に昇華することも出来ない状態にあるため、
過剰に同じ内容の表現が繰り返され、否定的な「言語化・思考化」としてストレス解放に向かおうとするわけですが、先にも書いたとおり、特に男性の場合はその方法では解決にならないんですね。
私もそうでしたが、男性の方が誰にも言わずに孤独に一人で抱え込む傾向があり、また男性はそうしたいと思うからそうするのであり、結果的に思考の無限ループに陥るわけです。
女性の場合は、「話すことでストレスを解放する」という男性とは異なる傾向があるために、多少の感情解放も効果はあるでしょう。(個性差や年齢や身体の強弱などによっても異なる場合はあります)
例えば母の鬱を治す過程では、結局私の補助なしには上手くいきませんでしたが、それは高齢で身体も弱っていたこともあり、しかもうつだけでなく、元々パニック障害や境界型の要素も含んでいたので、そう簡単にはいかなかった複雑でややこしいケースです。
なので小出しに感情を出しつつ適度に運動を行いエネルギー発散しつつ、感性アプローチで身体・無意識そのものに言い聞かせてやりながら、記憶に強く囚われないようにして「今やること」に集中していけば、
囚われは徐々に「時間」が解決していきます。そしてその後は慌てず騒がず「時」に任せて「ほっとく」と、後は脳が勝手にバランス修復していくんですね。本来、機能が損なわれていなければ、誰でも自然回復能力がありますので。
ですが悪化したフラッシュバック状態の場合、とにかくまず「ほっとく」ことが簡単に出来ませんので、そのままでは延々それに囚われ、負の記憶のループを強化させてしまうこともあるでしょう。
そしてマインドフルネスというのは、結局それを意識的に行う瞑想法でもあるので、「時に任せてほっとく」よりも時間短縮になるだけでなく、負の記憶のループを強化させないように「外す」作用があるわけですね。
「過去・記憶」に止まるのではなく、呼吸を感じながら「今・現在」と共に在る、これを繰り返すと、過去・記憶と感情の結びつきの脳内ループは弱まっていきます。そうすると囚われが弱まり楽になるんですね。
「感情や理性そのもの」が悪いのではありません。そして「過去」は「無駄」ではありません。「過去に囚われてばかりの在り方」が「無駄」なのです。「これからどう生きるか」で、「過去や現実の受け止め方」に関しては自然と「眼差しの質」が変わります。
知・情・意がバランスしてくれば、「感情や理性」はどちらも必要不可欠であり大事なものである、ということがよくわかるでしょう。
後、「気持ち」「思った事」を「日記」に書いてみるのも良いと思います。(私は過去にそうしていました。)そうすると自身の気持ちの変化・気づきの状態・囚われなどが再確認出来、後になって客観的に見えるものがあるからです。
ですが基本的に他者のペースに振り回されず、自分のペースで取り組んでくださいね。今スグは無理でも、徐々に回復して生き方が「自然体」になれば、自分を壊してまで合わさないといけない人や場とは縁がつきにくくなり、自分に合った人や場と自然と縁が出来やすくなります。
そして「自然体になろう」などと力むことはかえって「不自然」で、知・情・意がバランスして調和してくると勝手に健康な「自然体」になりますので慌てることはありません。
そしてこういう話は「知性的な理解」ではなく、「感性的に理解すること」が必要なので、「身体が理解するレベル」に落とし込めるまでは、なかなか思うようにいかないことはあるでしょう。
もし軽度のフラッシュバックではなく、「解離性フラッシュバック」などのPTSD症状や、強迫性障害が絡んだフラッシュバックの場合は以下の記事も参考にどうぞ。⇒ 「条件付け」の科学的検証 強迫性障害(行動主義心理学・行動療法・認知行動療法)
書いていることはシンプルでも「条件づけ」の強さによっては実際は難しい場合や、時間がかかるのはまぁ仕方ないことですので、気負わず焦らずに取り組んでくださいね。(^-^)
ではここでもう一曲どうぞ♪
The Scientist – Coldplay Cover (ft. Kina Grannis,Tyler Ward, Lindsey Stirling)
意識・無意識を見つめる「清明な何か」
思春期の頃に同級生の間で有名な不良グループの一人に絡まれケンカになったんですが、実は私はその時、激しいケンカしている最中にも自分を客観視していて、相手の心の動きだけでなく自分の心の動きも観察していたんですね。笑
何を感じたかというと、実際自分は「全く怒っても憎んでもいない」という静かな深い意識が、そのケンカの興奮の最中にハッキリと観察され、この深い意識は何だろう、と思ったんですね。パンチの顔面直撃を封じて抑え込みながら、「何かお互い無意味なことやっているなぁ」と自然に思ったんです。
私はそのケンカの最中もそうでしたが、喜怒哀楽によって反応し変化しながら動いている意識以外にも、それらの意識の変化や状態を静かに観察するもっと深い何か、そういうものが子供の頃からずっとあり、
「その何か」は全く変わらず、深いところから、周囲と自分自身をただ静かに見つめているんですよね。ですが意識表面では様々に変化し反応し動いているんです。
私が最も危機的状態にあった時期の過程は、今まで幾つかの角度から分析していますが、まず先に「その何か」が霞んで見えなくなり、清明さが喪失し、その後に「無意識に深く突っ込む状態」という二つの条件がガッチリ重なった時期とも言えますね。
この時、二つの条件のどちらかが欠けていれば、それほど制御不能に陥いることはなかったのだろう、とも思います。つまり「その何か」が霞んでいても、「意識が浅い状態」であれば理性・意志での制御は簡単に出来るし、
逆に「無意識に深く突っ込んでいる状態」でも、「その何か」が明晰であれば、意識の状態がハッキリ観察され制御出来るからです。
そして無意識への同化・囚われから解放され 無意識の意識化と同時に「その何か」の清明さが回復していくことで、閉塞した意識の檻から脱出した、ということですね。
コメント
フラッシュバックに寄る、負の感情、、、
その 負の感情の、正当化の為の、思考。
無限ループ を、外したい。
外したいが、容易くない。
過去に捕らわれる在り方から、自由になりたい。
が、難しい。
無意識の、意識化を、試みたい。
此処で語られる、論理的アプローチによる負の感情の合理化正当化は、正に、自分に当てはまります。
(このページのウラルを、その論理的アプローチ?の、ページに貼らせてください。そのアプローチは辞めるべきだと気が付きました。)
感性に対するアプローチを、試みてみます。
マインドフルネス試みてます。