今年も残り一日、前回の記事に続いて、専門禍と「概念」の後編で、誠実さと「美」のない運動です。これが今年最後の記事です、一年お疲れ様」でした、よいお年を。
ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。(キルケゴール)
進歩的左派とリベラリズムは対立関係にあるとはいえ、そして日本はまだそこまでではないとはいえ、海外(欧米)からの影響は続いています。
日本が今のアメリカの進歩的左派か、あるいは中国式の統合か、どちらを選ぶか?みたいになりたくなければ、今後はもっと現実的に(政治的も含めて)対応していく必要があるでしょう。ぼーっとしてれば、津波のように気づいたときはもう飲み込まれています。
SNSで主張するのもいいですが、グローバルな流れでの進歩主義の流入なので、末端で止めようとしてもマクロなレベルで圧がかかっているので、どんどん流れ込んできます。「脆弱な箇所」を狙って突いてきますので、動揺せず毅然として流されない態度が大事です。
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〇 ジョセフ・ヒース「ウォーク(正義に目覚めた一部の左派)は戦術・信条において裸の王様・女王様である
そして進歩的左派やリベラリズムでは対処できない現実のシビアな問題にももっと目を向けましょう。
2019年、スウェーデンの調査機関VーDemは、世界の民主主義国・地域が87カ国であるのに対し、非民主主義国は92カ国となり、18年ぶりに非民主主義国が多数派になったという報告を発表した。その後も民主主義が勢いを盛り返してはいないばかりか、権威主義国家の台頭ぶりが目立っている。
引用元 ⇒ もはや民主主義国が少数派に転落した世界の現実 実は迷走、危機に瀕する「アメリカの民主主義」
「タワマンに住み高級車に乗る私怨系アジテーター」と大差のないバラモン左翼と商人右翼に分断された世界の片隅で、置いてきぼりにされた弱者が虚無に飲まれる。
そして「リムジンリベラル / シャンパン社会主義者」たちによる社会運動に巻き込まれ、末端の足軽兵として使い捨てのイデオロギー戦闘員にされる。
現在のアメリカの左派は過剰過ぎで、あの状態では極右を否定する資格すらありません、もはや同じ穴の狢です。日本はまだアメリカの進歩的左派レベルの負の影響力はないですが、Jリベラルは勢力こそ小さくても同質です。
進歩的左派に一気飲みされてからでは遅いので、今のうちにもっと保守的な力学を強めて対抗していくことですね。あの勢力が拡大すれば、本来の「古き良きリベラルの精神」では対抗できないでしょう。
そもそも「保守主義とは何か」ですが、宇野 重規氏の著書「保守主義とは何か―反フランス革命から現代日本まで」を参考として紹介しておきますね。
政治勢力としての保守主義の歴史を振り返ると、最初はフランス革命を批判する勢力として生まれました。のちに社会主義、さらには大きな政府を支持するリベラリズムに対抗する立場が保守と呼ばれました。人権など抽象的な理念を掲げて急進的な改革を推進する勢力に対して、ブレーキをかけるのが保守主義の役割だったのです。引用元 ⇒ 中公新書 保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで
つまり「保守」の役割をいつ前面に出すか、「今でしょ!」
では一曲、世界中の僧侶、総勢60名以上で「般若心経 」です。今年の厄を浄化です♪
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〇多数の難民を受け入れたスウェーデンが思い知った「寛容さの限界」
〇 「社会はリベラルに運営し、個人としては保守的に生きよ」…〈21世紀の道徳〉が教えること
ミレニアル世代・Z世代
「ミレニアル世代の心を動かすディスラプター、その主役もミレニアル世代へ」 より引用抜粋
ここで、ミレニアル世代は、消費人口においてどれくらいの比率を占めているのか。最新データで日米を比較してみよう。
2020年、米国における全人口3.28億人のうち、ミレニアル世代は1.73億人、人口比で53%と既に過半数をとなっている。そのため、当然のごとく米国企業の多くはミレニアル世代を強く意識したサービスを展開している。
一方で、2020年度の日本を見ると、全人口1.26億人のうち、ミレニアル世代は4,700万人、人口比で37%。米国よりかなり高齢化が進んでいるため、商品サービスへの「新しい感性の折り込み」が遅れる一因となっている。
視聴率を制作基準におくテレビ番組などはその典型だ。結果的にYouTubeやNetfixなどの破壊的なイノベーションが次々と登場し、テレビは「イノベーションのジレンマ」のまっただなかで苦しんでいる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ ミレニアル世代の心を動かすディスラプター、その主役もミレニアル世代へ
「ミレニアル世代・Z世代」が上の世代「X、Y世代」と違う面は何でしょうか?「働き方、生活感の違い」で特徴的な傾向なのが、「ギグ・エコノミー」「スラッシュキャリア」「ミニマリスト」などですね。
そしてこの世代は「デジタルパイオニア」「デジタルネイティブ」であり、「多様性・個人主義により適応している世代」ということです。
ではアメリカと日本ではどう違うのでしょうか? アメリカはデジタルパイオニアのミレニアル世代の人口が日本の約4倍もいて、アメリカ国内においても過半数、しかもアメリカのZ世代は「アメリカの総消費40%を占める」というから驚きです。
人口数、人口比、経済の規模が違うという事。つまり同じ世代であっても、アメリカと日本では社会に与える影響力が全く異なるわけです。そして「言語」の違い、第一言語が「英語」の国である、という違いも大きいですね。
アジア、アフリカを含め、英語が公用語の国は56カ国もあります。アメリカの過半数を占める「ミレニアル世代・Z世代」は国内だけでも影響力があるのに、デジタルを使いこなすこの世代は、「他の英語圏」の若者とも繋がっていくのです。
よって「世界市民・地球市民的意識」がリアルに生じやすい傾向があるでしょう。これらが日本のデジタル・ネイティブの若者との大きな違いでしょう。(世界市民・地球市民的意識というのは過去に書いた「人類的自我」とも共通する概念ですが、全く同じということではありません)
インターネットが出来た初めの頃、世界が広がる、という肯定的な力のようなものが確かにあったのですが、現在は、SNSを観ていると、テレビに出てくる専門家の話よりは専門性の高い情報なども多いので、「言語主体の特定の文脈での解像度」は上がることはありますが、
それだけでなく、特殊化された解像度によって逆に世界の広さ、人間の多元性もわからなくなる、という逆説的な力学が強まってきているように思います。
誠実さと「美」
「マジョリティ」だの「マイノリティ」だの「構造」だの「特権」だの「ダイバーシティ」だの、そういう「ざっくりした概念」と理論だけで、複雑系としての社会や人間や物事をひとくくりにして、専門家が「こうあるべき論」で統一しようとしたりせずに、
「専門家は己自身の自己相対化をもっと深めた方がよいんではないか?」と、最近SNS等で活動する一部の専門家に対してはそう思いますね。
話は変わりますが、大谷翔平さんが凄いのは、あれだけ突出した能力があるのに傲慢にならず、、科学的なトレーニングを積み上げつつ、「運」とか「徳」のような現代では抽象的とされたものを大事にしている点です。まさに化け物級の自己実現者ですね。キングダムでいえばもう将軍ぐらいまで行ってそうな器です(笑)
「たかが運」、「たかが徳」と、「目に見えないもの」を否定する人は、「目に見えないもの」で足元をすくわれる。
人が「傲慢」であるとき、「目に見えないもの」がどんどん蓄積されていきます。やがて「目に見えないもの」が大きな反動となって不意に襲ってくる。それが運、徳のゆらぎであり、そこにもある程度の法則性はあるのです。
話を戻しますが、研究者の真摯さ・公正さを失わずに有名人としてテレビ・メディアで活躍できる人は少ないのかもしれません。社会運動に嵌る専門家が「公明正大さ」を失うのと同じく。
ネット、SNSでも専門家が不確かなことを断定的に言ったり、「こうあるべきだ」の価値基準を押し付けてくることは多々ありますが、テレビよりは情報に幅と多元性があるので、相対化はしやすいです。
ステレオタイプ脅威、マショマロ実験、ダニング・クルーガー効果、(テレビでも「専門家」が使い広めてもいた概念ですが)これらは「再現性は低い」とされています。
そういう科学者としてきちんとすべきところは指摘せず、それ以外の「気に入らない対象」に関しては、逐一細かく言葉の定義がどうたらこうたらと文句を垂れる、そういうSNSの一部の専門家たちこそ、特権にあぐらをかいてる構造そのものでしょう。
残念ながら、専門家を含む一部のフェミニストや、進歩主義的運動に同化している人々は、自身の前提そのものを解像して徹底吟味するような、科学的誠実さも自己相対化の姿勢も持っていないのだろう、と感じました。
ただ、同属性(フェミスト、女性、当事者等)ではあっても、自己相対化の姿勢を有し、前提を含めて考える人々もいるので、そういう人々は今後も陰ながら応援していきたいです。
大義名分を掲げていても、「フェアさがなくルールも守らず、汚いやり方でも勝てばいい」では、やはり醜い。戦いの姿勢が卑怯で乱暴で嘘も多い姿では感動しないし応援もしたくない。
まして失敗や結果を受け止めず、自分の側にもあったであろう敗因を認めることもなく、言い訳ばかりして「あれは○○のせい」と、他者や社会のせいばかりにしている人々には、潔さも素直さも謙虚さも感じない。
「価値」の世界は「事実」の世界と異なり、それ自体が「正しい」という絶対の根拠はないにも拘わらず、「何らかの価値」をそこに感じる。
ボクシングでもフィギアスケートでもそうですが、ルールの中で潔くズルをせずに全力を出す姿、そこに美しさを感じ、アスリートのパフォーマンスに何故か感動する、そこにはそれ自体が「正しい」という絶対の根拠は不要です。
「正しさ」の理屈なく多くの人を惹きつける、「美」や「魅力」や「感動」はそういうもので、正しくある必要や根拠は必要ないんです。
今年のフィギアスケート男子はとても感動的でしたが、それと比べてSNS活動家たちや、ノイジーな一部のマイノリティ支援者の姿、それはアスリートの姿とは全く違うものでした。だから選挙でも現実でも、ドン引きされ続けているわけです。
「正しさ」の理屈・理論ばっかりで「言葉だけ」は雄弁に語るけど、「やってること」がとてもかっこ悪い、言動は時に汚く乱暴で、嘘や言い訳も多く、そんな状態でも他責と仲間の擁護ばかり。基本が党派性の内集団なので自己完結したループしか生じず、発展性・創造性がないのです。
クレーマーとレッテル
ある運動において「クレーマー」と言われてい人達が、「○○に都合が良いからそう定義された」と結びつけることは、「クレーマー」と言った側が悪いと「反転」させてしまう「運動側のレトリック」です。
非常に多くの一般人(当事者を含む)が、かなり明確な多角的な論点で批判しているにも拘わらず、またそれらの意見が特定の属性を批判するのではなく、「特定の個人の言動」への批判として聴くべき視点があったにも拘わらず、
とにかく「運動する側の都合」で、属性の問題、構造の問題に接続して、マイノリティ側を全肯定し、マジョリティ側を全否定する、そして「クレーマー」と言った側が「間違っている」「悪意である」と決めつけてレッテル張りをしているわけです。
「個人の意見」への批判を「属性への批判」にすり替える単純化がよく観られます。
そこには「そういわれる複合的な背景」が存在し、しかも同じ当事者の属性の中にも批判していた人は複数いたにもかかわらず、「自分たちの運動、価値基準に合致する側の当事者の意見」しか肯定しないのです。
「小さな声、穏やかな態度では変わらない、だから多少の乱暴さ、過激さも仕方ない」、「真実の戦いのために○○も必要」等のよくある「雑な理屈」は、便利だからよく使われるものなんですね。
「私たち声を封殺する気か!」もそうですが、その「私たち」には、「別の声(主張)を上げる当事者(同属性)」は入っていない、つまり「気に入らない当事者の声」は封殺しながら、「特定の人達の声だけ」を「私たちの声」として属性代表に据える。
「自分たちを守り相手を攻撃するのに便利だからよく使われる理屈や概念」は、注意深く観ればそれはその人達自身にも当てはまるが、そういう人達ほど「灯台下暗し」なんですね。
「左側の使い古されたレッテル張り」、よく使われる「ナチス」、「ヒトラー」、「ファシズム」、「独裁者」等の概念の使い方も、もう賞味期限が切れていて過剰な比喩になっているパターンが多いと思います。
他に、「隣組」「大政翼賛」、「クリスタル・ナハト」、「マッカーシズム(赤狩り)」などもそうですが、まぁそういうレッテルって簡単に反転する可能性があるものです。
ポピュリズム、全体主義、思想統制、独裁等が右や権力(上)から来るとは限らず、左や下から来るということもあるわけで、自分たちだけが「正しい側」で相手を殴り続けられるとは思わない方がよいです、その痛みは必ずあなたに帰ってきます。
ところで、以下↓に紹介の外部サイト記事ですが、とても穏やかに語る伊藤亜紗さん、静かですが、身体に響く独特の呼吸と言葉のリズムがあります。「それを生きている人のコトバ」です。
私は昔から、このような独特な「人の語り」がとても好きです。最近の野党のやり方、BLMのような先鋭化した社会運動等、どれだけ大声で喚き散らしても、あのやり方では一切響かないのです。一ミリも共感しません。
とはいえ、もっと昔の社会運動の多くは、「大きな激しい声」であっても共感することの方が多かったです。あの過激な反差別の人達、カウンターあたりから嫌になったんですね、あの手のイデオロギー活動家の心無さ、欺瞞、自己中心性、暴力性、カルト性ゆえに。
「記憶する体」伊藤亜紗さんインタビュー 障害者の体の記憶とは」 より引用抜粋
語られてこなかったのは何か理由があるのでしょうか?
歴史的な話になるのですが、「障害者」という概念はもともと産業革命の頃に標準的な労働ができない人を指す言葉として登場し、「障害とは個人がもつ、治すべき特徴」だと捉えられていました。これを「医学モデル(個人モデル)」と言います。
ところが1970年代頃になると「社会モデル」という考え方が登場します。これは「障害は社会の側にあるのであって、障害者はそれによって無力化されている」というものです。車いすの方が段差を前にしたとき、障害は「その人が歩けないこと」ではなく「段差」のほうにあるという考え方ですね。
社会モデルは障害者運動の理論的支柱として、大きな役割を果たしました。しかし、社会に変化を求めようとする運動の言葉は、どうしてもマッチョになりがちです。
社会を変えるためには、例えば「障害とともに生きていく」といった強い言葉が好まれがちですが、個人と障害のつきあい方はもっと多彩で、繊細なもの。強い言葉は個人の多様な感じ方を隠してしまうし、「私も障害を受け入れなくちゃ」という強迫観念に繋がる危険があります。
一人一人の体を置いてけぼりにしないためにも、個人の体の感じ方がもっと語られてほしいと思っています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
世界は誰かの仕事で出来ている
世界は、「派手さはなく目立ちもしないが、それぞれの役割をしっかりとはたしている人々の仕事」で回っている。そして「この世界の片隅に」の「 すずさん」のように、戦争の時でも、日常を健気に穏やかに生きた人々がいるように、そういう人々の優しさ・平和さが、「日常を生きること」それ自体を支えている。
🎞️字幕:フェミニストや社会学者が好んで使う「有害な男らしさ(toxic masculinity)」というフレーズ。
ラディカルサヨクの天敵とも言われる、カナダの心理学者ジョーダン・ピーターソンが感情をあらわに語る、有名な一幕。 pic.twitter.com/Nevpsuoprg
— 🇺🇸Blah💬 (@yousayblah) December 7, 2021
カナダの心理学者ジョーダン・ピーターソンが語るように、そして歴史を観れば、「近代社会」の構築自体が、「男たちがいなければ不可能だった大事業」であることがわかります。
「社会インフラ」はほぼ男が作った、そして「男にしか作れなかった」そういう世界なのです。そして改良の余地はあるし、システムと多様な人間との互換性は偏っている、というのは事実でしょう。
本当。当たり前だよね😣
女性も「高給取りの仕事」目指してみたら?です。私は絶対にムリ。本当にムリ😱 pic.twitter.com/0fadseauXX
— Yuni Ageha (@AgehaYuni) December 30, 2021
現在、お気軽アクティビストたちが「革命」だのなんだのいったところで、それは長い歴史の中で、男たちが膨大な血と犠牲と戦いの中で構築してきた巨大で複雑な近代社会システムのインフラをそのまま土台とし、
そのほんの表層部をちょちょいと編集するだけのことで、実際は全くたいしたことはしていない。
彼等・彼女たちは、アクティビストみたいな人が何か凄いことをしてきたみたいな思い込みがあるけれど、実際の現実や歴史の大半の時間というのは、「無名の非アクティビスト」と、「無名のマジョリティ」たちこそが支えてきたのです。
「それ以上のものを創造する」のも、それらの人々の支えと協力と共にあるマクロな運動なのです。
「地味で目立たない実直な無名な人々の日々の活動」を軽く当たり前に考え、単純化した概念や属性でひとくくりにして考える者たちが、多くの人々から称賛も賛同もされないのは当然で、反発されるのも当然。
社会のインフラをシッカリと作り維持し、技術を高め、創造し、支えてきた、その膨大な創造エネルギーと積み上げられたリソースに支えられて現代の複雑な社会がようやく成立する。
そして技術やインフラの土台部は今も「地味で目立たない実直な無名な人々の日々の活動」で支えられています。
「それが生まれた時から当たり前にある彼等・彼女たち」にとって、「現時点での構造の歪みや不十分さを減点目線で観て否定するだけの姿勢」というのは一番簡単なことでしょう。
社会構築主義の理屈の元に、ある価値(特定の属性に不都合なもの)を解体し、別の価値(特定の属性に好都合なもの)を内面化させようとするパターナリズムの行使、それは「無責任な自分都合の権力配置」に過ぎず、支配と被支配の構造そのものは変わってないのです。
しかし「権力それ自体」は悪ではありませんし、それはなくなりません。必要だから存在するのです。社会構築主義の雑な使用は、たとえば「私怨で始めた社会運動」の場合のように、「無責任な自分都合の権力配置」に始終し、そうやって権力性を増した者たちを腐敗させていきます。
どちらにせよ「社会構築の結果」ならば、むしろ「過去のまま」の方が、「権力」があるべき位置(責任を負える者たち)に在ったという点に関してはまだバランスが良い社会構築の型だった、とはいえるでしょう。