今日は普段は「社会心理学・社会学」のカテゴリー記事の更新で、「共謀罪」と機能不全社会に関するテーマで記事を書いています。まず、法務省の「共謀罪」に関するページを紹介します。
『「組織的な犯罪の共謀罪」に対する御懸念について 』より引用抜粋
法案で新設する「組織的な犯罪の共謀罪」については,種々の御懸念が示されているところですが,中には誤解に基づくものもあるように思われます。そこで,この罪の内容について,正確に御理解いただくため,主な御懸念について御説明します。
○ そもそも「共謀」とは,特定の犯罪を実行しようという具体的・現実的な合意をすることをいい,犯罪を実行することについて漠然と相談したとしても,法案の共謀罪は成立しません。
したがって,例えば,飲酒の席で,犯罪の実行について意気投合し,怪気炎を上げたというだけでは,法案の共謀罪は成立しませんし,逮捕されるようなことも当然ありません。
○ 法案の共謀罪は,例えば,暴力団による組織的な殺傷事犯,悪徳商法のような組織的な詐欺事犯,暴力団の縄張り獲得のための暴力事犯の共謀など,組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪を共謀した場合に限って成立するので,このような犯罪以外について共謀しても,共謀罪は成立しません。
(どのような場合が共謀罪に当たらず,どのような場合が共謀罪に当たり得るかについては,こちら(組織的な犯罪の共謀罪) [PDF]をご覧ください。)
したがって,国民の一般的な社会生活上の行為が法案の共謀罪に当たることはありませんし,また,国民同士が警戒し合い,表現・言論の自由が制約されたり,「警察国家」や「監視社会」を招くということもありません。
○ 法案の共謀罪は,違法性が高く,結果が実現する危険性も高い「組織的な犯罪」を実行しようと共謀した者を処罰の対象とするものであり,特定の団体に参加する行為や,特定の犯罪と結び付かない結社を組織する行為を処罰するものではありません。
したがって,「警察が組織的な犯罪集団と認定すれば処罰される」ということはなく,また,国の体制を変革することを目的として結社を組織することなどを処罰の対象としていた「治安維持法」とは,その趣旨や目的,処罰の対象となる範囲がまったく異なります。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
ドラマ「女囚セブン」を毎週観てますが、剛力さんの京都弁が大のお気に入りです(^-^)、決め台詞がいいですね。 記事の一部を「京都弁」で書いてみましたが、「何となく京都弁」という感じなのであしからず。
– 京都弁 ここから –
法務省のページに書いとるではおまへんどすか、これを破るのであれば破った方が悪い。そやし民主主義にのっとりシッカリと抗議すればええではおまへんどすか?そしたら逮捕されるって?は? 何をビビっとるんどすか?
『国民同士が警戒し合い,表現・言論の自由が制約されたり,「警察国家」や「監視社会」を招くことはない』と書いとるではおまへんか、にもかかわらずこれが嘘で実際にそうなりはったら、
そら与党が市民を騙さはったんやし、逮捕されようが何やろうが民主主義社会の精神にのっとり、シッカリと「言論」で徹底的に戦ったらいいんどす、それだけどす。
「罪は犯す者が悪いんやない。犯させる者が悪いんどす」いや違いますわ、「ホンマは罪でもないのに罪にする方が、ほんで恣意的に人を罰する方がわるいんどす」
マジョリティもマイノリティも関係あらへん、属性ではなくやらはること自体、個人で判断したらよろしいわ。リベラルも保守も関係あらへん、属性ではなくやらはること自体、個人で判断したらよろしいわ。
– 京都弁 ここまで –
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— ハフポスト日本版 (@HuffPostJapan) 2017年6月16日
私は共謀罪は「条件付き」で、今のまま「曖昧な状態」ではやや反対の理由は、それでテロを防げないとか、「本当は対テロ目的ではない別の目的がある」ということへの懸念とか、それだけではありません。
(※ イギリスには共謀罪がありますが、事前に防ぐことも出来ないまま連続的にテロが起きています。)
私が否定的な理由は、
過度な「排除」の力学が与える心理的影響によって、それが逆に新たなテロの動機となりテロの原動力を高める可能性があるからなんですね。特に「無敵の人」タイプのテロ。
適切なリスク対策は必要ですが、過剰防衛や潔癖過ぎる不安対策は、社会や人間の別の面の豊かさ(信頼感・大らかさ・繋がり・創造性)を委縮させ阻害します。
権力が間違う時の被害は、一般庶民の個人の判断ミスの比ではない巨大な被害になるわけで、こういうものは慎重に考える必要があるんですね。
共謀罪以前に既に冤罪とか不法な取り調べとか、まぁしょっちょう起きるわけではないにせよ現実にあるわけで、そして警察組織全体から見れば決して多くはないにせよ、「犯罪を犯す警察官」だって今も昔も一定数は必ず出てくるため、
捜査権の拡大という権限を与えられた警察組織の中に、それを悪用するものや、冤罪の発生などのミスや逸脱が生じてくる可能性は否定できません。
そして過去に日本は権力の異常な暴走を経験しています。(2018/3 追加更新)
〇「スパイを防ぎたければ、真の日本人になれ」戦中に政府が広めた思想
つい最近も不正やミスが発生しました。こういうことが起きる事実が、人々の不安を高めるわけですね。
〇 広島の警察署内8500万円盗難、迷宮入りも囁かれ呆れる声
他にも残虐な例では「元埼玉県警巡査部長の強盗殺人」、「元大阪府警巡査長の不倫殺人」などが記憶に新しいですが、警察官も「ヤクザや犯罪者顔負けの悪事に手を染めることがある」わけです。また個人ではなく「組織的な不正」なども指摘されています。
このように、人間がすることに完璧はないからこそ、権力組織による権限を強化するだけの一方通行でなく、行き過ぎた行使や悪用による暴走を抑えるシステムも同時に作る必要があるのでしょう。
全否定しているわけでも全く信頼していないわけでもないですが、権力側のミスや逸脱が起きる可能性への対策をシッカリせず、一方の力だけをどんどん強めていくのはバランスが悪いんですね、だから危惧されるわけです。
「現時点での日本」という条件下では、「共謀罪はそんな過剰で逸脱した使われ方はしない」と考える方が自然な感覚ではあっても、
仮に一回でも実際に死傷者が出るようなテロが起きたり、社会・政治の状況が悪化するなどの負の変化が生じれば、恐怖や不安が集団ヒステリー化し全体主義化した時、共謀罪は変質していく可能性があります。
なのでこのような方向性だけを強化していくやり方は、社会が機能不全化していく中では暴走的になる可能性を潜在的に宿していると考えられる、だから「暴走を抑えるシステムも同時に作る必要がある」ということですね。
社会学者ジョック・ヤングは、後期近代の社会を「排除型社会」と捉え、その流れを危惧し、70年代までの「包摂型社会」と対比していますが、彼の分析と批判は、現代の欧米社会の負の面をとても鋭く見抜いているといえますね。
排除は➀ 労働市場からの経済的排除 ➁ 市民社会の人々のあいだで起こっている社会的排除 ➂ 防犯・安全対策の名の下に進められる犯罪予防における排除的活動の3つとヤングは考察しています。
リスク評価を基準にした潔癖で強迫観念的な過剰な安全対策の強化は、「疑わしきは罰する」によって、不審者とされた対象を集団から強制排除して隔離する一方的な傾向性に向かうわけです。
このような極端な犯罪予防政策で「外集団・内集団バイアス」が社会的に強化される時、それはカルトの構造性に似た極端な集団同化と集団排斥を引き起こし、
その結果、スケープゴートにされた対象が社会によって過剰に「悪魔化」される、それは現代の「魔女狩り」「村八分」を社会全体レベルで引き起こすわけですね。
現段階ではそこまで酷い方向性に向かうとは考えられませんが、社会が現在よりも機能不全化してくればこれらの不安が現実になっていく確率を高めるでしょう。
問題は、強力な排斥とスティグマの強化にさらされた個人が、社会包摂より迫害的な作用を強く長く受け続けた場合、意識は退行し低次の防衛機制や原始的防衛機制による病的状態に向かう可能性を高め、
人間らしい関わりを失った個人は、そして血の通ったシッカリした信頼関係を社会に見い出せなくなる時、その暴走に歯止めはきかなくなるわけです。
そのような負の力学を強めていく社会は、それ自体がテロリスト(無敵の人)を生産する環境・場となるでしょう。そして自らが生み出した脅威に自らがさらされるわけです。
「物に溢れ科学も発達した先進国社会」でありつつ闘争は過剰化し格差も徐々に大きくなって、経済的不安だけでなく「存在論的不安」も高まってきています。
〇 スクールカースト頂点も卒業後は貧困…ニッポン階層社会の現実
ヒットラーは、「宣伝効果のほとんどは人々の感情に訴えかけるべきであり、いわゆる知性に対して訴えかける部分は最小にしなければならない」と、感情に訴えることの重要性を挙げているのですが、
恐怖や不信の作用は、「存在論的不安」に囚われた人の意識にはとても強く働きかけて感情反応を引き起こし、その結果、過剰で極端な防衛(内集団への同化)・攻撃(外集団への排除)が生じやすくなります。
これは恐怖心や不安感をベースにしている時、人は脳の原始的領域を活性化させ理性のタガが外れやすい状態なるからですね。
極端な二元思考になって中庸がなくなり、そうやってヒトラーは庶民の理性を奪い極端さへと扇動していたわけです。これはある種の集団退行なんですが、
機能不全化した社会を回復へと向かわせるには、大きな更新が必要なので、こういうタイミングでは「極端な人」が社会に登場し、庶民からも賛同を得て選ばれやすくなる雰囲気・傾向が高まりますし、
また機能不全化した状況下では、そういう極端な政策を実行できる嫌われ役でなければ出来ないことが実際にあるわけですが、
だからといって「それを生み出す源泉」をそのままにして変えないまま、ただ外圧だけを強化していくような短絡的な方法をとった場合、社会はさらに悪化してカルト化します。
「過去と現在は違う」とはいっても、歴史において人類は似たようなパターンを実際に何度も繰り返しているわけですね。
抑止力が必要ないということではありません、排斥・排除的な対応も対象の危険度・有害度に応じて現実に必要なことではありますが、
短期的な効果・効率や成果だけを重視して、それだけをアンバランスにどんどん高めていくやり方一辺倒では問題は解決しないどころか、逆に負のループが続いていくだけでしょう。
時間もエネルギーもより多く必要になっても、「負の現象を生み出す構造的なものを改善し、システムを慎重に丁寧に変更・更新していく」ということの方がより根本的で大事なことで、
そうやって「排除」と「包摂」はバランスしていくことが必要です。これは身体の「免疫」と同じですね、何でもかんでも受け入れ過ぎては体全体が壊れてしまいますが、過剰免疫反応もまた身体の機能不全に陥ります。
これは外来種のパラドックスとも関連しますね、例えばある外来種を川や森に放流したとしましょう、その結果その森や川の多様な生命体系が壊れ、逆に多様性が失われた状態になった、というケース、
一般に「外来種」を受け入れる姿勢(包摂)が多様性あるいは寛容なんだ、というかもしれませんが、実際は生命体系が壊れてしまったわけで、この場合、外来種を受け入れない方(排除の方)が多様性は保たれるわけです。
地球全体で多様性を一元的に見れば、外来種という発想はなく、全てが地球に包摂された生命の一種です。
このような普遍的多様性の考え方が適応されるのはマクロレベルでの話であって、地球の様々な場・自然環境には多元的なミクロな生命体系が形成されており、それぞれが調和を保って恒常性が維持されているわけです。
よってマクロな生命体系での多様性でなく多元的なミクロな生命体系での多様性を考えた場合では同じ多様性でも捉え方が変わるんですね。
多様化した現代社会にもこのジレンマは存在し、グローバルな世界と言う一元的な多様性だけで考えるのではなくて、あるものを受け入れることが、個々の多元的な場・環境のおいてその場全体を機能不全に陥らせる、多元的な場そのものが維持できなくなるような場合、
結局その空間に住む者達の全体としての生命体系の調和性が失われ、多様生による繁栄がなくなって、「極端な部分の繁栄と衰退」のイビツな格差となって個々の生は分断してしまうわけです。
当然そこで反動が生じ、それが「排除」を中心とした排外主義的な運動性となるわけですが、それ自体はとても自然な現象、ともいえるんですね、
決して誰か物凄い悪人たちが庶民をマインドコントロールして導いた陰謀論的な結果なのではなく、心無い悪意に満ちた人が急に増えたわけでもなく、ただ機能不全化した場の中に生じる自然な反動の一面なのです。
それ自体は自然な現象ではあるが、それが現実に大きな現象として起きているということは社会の機能不全化が進んでいる状態でもあるので、社会及び人々の調和性は崩れ状態もよろしくはない、ということには変わりません。
社会がこのような状況下にある時、負の力学に呑み込まれた人は解離が進み極端な暴走が生じやすくなります。そして世界のアチコチで意識の退行現象が生じ、原始的な防衛機制による破壊的な攻撃性などの暴走現象が現われてくるでしょう。
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