RIZIN13で山本美憂さんが見事に勝ちましたね、おめでとうございます。そしてガンで亡くなられた山本KID徳郁選手のご冥福をお祈り申し上げます。
それにしてもミルコは恐ろしいほどの強さですね、生まれながらの戦士です。後、楽しみにしていた「那須川天心VS堀口恭司」の試合も本当に凄かったです。
直感では那須川天心の判定勝ちになるだろうと思っていましたが、いざ試合が始まると際どい感じで「これはもしかしたら」と感じさせるような、まるで漫画の格闘シーンような次元の違う動きでした。
今日は自尊心(プライド)と自己肯定感、そして自信と強さの多元性をテーマに書いています。「自己肯定感」に関する補足の記事でもあります。まず最初に高橋優さんの歌「プライド」のMVを紹介します♪
「強さ」とは何か?ストレス耐性の高さ、対応能力の高さ、逃げる能力(危機の見極め)の高さ、回復能力の高さ、などなどいろいろありますが、
例えば格闘技でも「打撃に対して打たれ強いタイプと弱いタイプ」がいます。攻撃への対応能力が低いために打撃を受けてしまう場合でも、「打たれ強いタイプ」であればいくらかは持ちこたえられます。
打たれ弱くても攻撃に対する対応能力が高ければ直接の打撃をかわすことができます。
「回復能力」が低くてダメージが残り続ける場合は長期戦で不利になり、回復能力が高い場合は、多少の攻撃を受けながらでも何とか持ち堪えられます。
仮に全てが弱くても、逃げる能力(危機の見極め)が高ければ、何とかなります。問題は「全ての能力が低い場合」と「組み合わせがアンバランスな場合」です。
打たれ強く対応力が高くても、相手がそれ以上に圧倒的に強い場合は防御は無理です。この場合は組み合わせ的に相手が悪すぎるのです。
そして逃げる場合でも、相手がどこまでも追いかけてくる場合や、逃げること自体が出来ない状態ではやられます。この場合、「深く関わってから逃げる」のでは遅く、「最初から関わらない」方が断然いいわけです。
逃げる「見極め」以前に、最初から関わらない、近寄らない「見極め」も大事です。
日常的なことに置き換えれば、「身体的な強さ」は、運動・エクササイズや栄養・休息をシッカリとることで徐々にシッカリさせることが出来ます。
「回復力」はハレとケのバランスでもあり、私生活を整えることでもアップできます。例えば良質な睡眠、生活リズムの調和、自分に合う気晴らしや息抜きなどで心身をバランスし癒すことができます。
そして肉体的・技術的・能力的な強さだけではなく、「バウンダリーを明確にする」「課題の分離が出来ている」という、「自と他の区別」が出来ていることは、無駄にストレスの「量」を増やさないことに繋がります。
また「過去・現在・未来」の時間軸を「今・現在」を中心に、そして集中点を「ココ」に置くことで、集中力を分散させない、「遠くで起きていること」ばかり気にし過ぎて「ココ」をおろそかにしない、ということです。
過去や未来に意識を向けることが悪いのではありません。過去に学んだり失敗や傾向の分析から何かを生かせるなら、それは「今」に役立ち現在に繋がりますが、
「ただ過去に囚われ引きずられるだけ」では不毛でしょう。また未来のために現実的に何かを計画し、前もって思考することは意味を持ちますが、「ただ不安に囚われ、まだ起きていない未来を心配し過ぎる」というのは不毛ですね。
他にも「強さ」は「それが好きか嫌いか」でも変化します。人は楽しい事や好きな事であれば、ストレスフルな状況(他者から見て)でも、「危険や失敗や努力の連続に見える過程」の中でも驚くほど耐性が増します、
それどころかその状況・過程すらも楽しかったりします。たとえば格闘技なんて殴り殴られる死闘の世界なので、それを無理にやりやらされたりすれば凄まじいストレスでしょうが、それが好きな人はそうではないのです。
そして世の中には一つのミスで命を落としかねない危険な仕事が沢山ありますが、それだって「合うか、合わないか」「好きか、嫌いか」「慣れているか、慣れていないか」によって、同じ仕事でも感じ方は違うわけですね。
自尊心と自己肯定感 自信と強さの多元性
自己肯定感と自尊心は異なります。自己肯定感は「在ることそれ自体の肯定」が土台にあるため、関係性の優劣や「自分は正しい」ということから生じる自信ではありません。
「今ココに在るあなたや私」の実存性は、代替できない絶対的な唯一のものです。
なので、本当に自己肯定感がある時、人は実存次元に「個としての絶対軸」がある故に、逆に「自分は絶対正しい」という虚勢を張って過剰防衛するような反動がなくなるんですね。
絶対軸が自分自身にあるからこそ、逆に自身の失敗や間違いも素直に認められる余裕が生まれ、正しい時はただ正しいと自然に感じ、過剰な防衛反応もなくシンプルにそれを伝えるわけです。
そして想像力と知性が調和していれば、他者や物事を多元的に捉え受け止めて認めることも出来るでしょう。
なので自己肯定感はあっても、想像力と知性が足りなかったり、どちらかが分離肥大化していれば、物事の捉えかたが大きく偏ることはまだあるわけですが、
自己肯定感の土台があれば、何らかの価値基準で劣っていても、そのことで心身のバランスが危うくなるほど傷ついたり悩み過ぎることは通常は生じず、他者を過度に気にせず、自身の位置からその人のペースで歩んでいけるのです。
「土台の肯定」があるからこそ、逆に「自分で自分を限界まで追い込む」ことも可能なんですね。(これは自責や無理な我慢などの否定的な追い込みではなく、自身を成長させるための追い込みの意味です。)
自尊心は「自分が一番」「自分は価値のある人間だ」が根底にあり、競争原理・他者との比較に基づくものであるため、関係性の優劣に左右され、卑屈さや傲慢さを生じさせます。
他者や周囲の価値基準での評価が「自身の価値の肯定や否定」になるため、正負の波が生じるわけですね。ではここで、「自尊感情の心理学」に関する外部サイトを紹介します。
「自尊感情の心理学 理解を深める「取扱説明書」」 より引用抜粋
(前略)
2)自尊感情の暗部について
「自尊感情」にまつわる第二の問題は,高い自尊感情を有していることや,自尊感情を高めようとすることによるネガティブな影響,すなわち,自尊感情の暗部である。第13章の前半ではとくにこの暗部についての言及がなされる。具体的には,自尊感情を高めようとすると生じる良くないことの例として,
(a)他人の気持ちや欲求を無視するようになること,(b)外集団を差別するようになること,(c)失敗や批判から学べなくなること,(d)攻撃的になることが紹介される。
(中略)
そもそも我々は何のために「自尊感情」を抱くように進化したのかといった,自尊感情の起源に迫られる。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「自尊感情の心理学」によれば自尊心の負の作用として、
(a)他人の気持ちや欲求を無視するようになること,(b)外集団を差別するようになること,(c)失敗や批判から学べなくなること,(d)攻撃的になる
などが挙げられています。
自尊感情の起源は,「優位性モニター説」と「社会的受容モニター説」があるとされますが、心理学者のM.R.リアリーは、自尊心を「自分と他者との関係を監視する心理的システム」と捉えたソシオメーター理論を提唱しましたが、
社会的受容モニターは、「所属集団にどの程度受容されているか、あるいは拒絶されているか」を意識化することは、社会的生物である人間がその集団内で生き残るために必要なものだったから発達した、という考え方で、
優位性モニターは、群れの中での「地位」を把握し比較する心理ですね、上位か下位か、という優劣(得をする位置か損をする位置か)を意識化し、
否定的な情動(不快さ)によってそこから脱するため上位を目指す、という闘争本能とセットともいえるでしょう。
つまり自尊心は集団への適応度や地位によって変化するものであり、集団への適応や地位への「囚われが強い」ほどその波は大きくなる、「囚われが弱い」ほどその波は小さくなる、という関係性であり、
また、所属している集団・組織がカルトであったり犯罪集団であったりした場合は、自尊心は個人をその組織・集団内での適応や競争に向かわせる原動力にもなるため、否定的アイデンティティを支えるひとつの力学にもなるわけですね。
では再び、自尊感情の心理学 理解を深める「取扱説明書」からの引用の続きです。「自尊心だけを高める」ことのおかしさ、問題点を指摘しています。
「自尊感情の心理学 理解を深める「取扱説明書」」つづき
(中略)
「自尊感情(だけ)を高めること」は,「モニターをいじること」に他ならないためである。本当は100km/hで走行している自動車のスピードモニターが,40km/h(現実から逸脱した値)を示すように改造してしまえば,様々な交通事故を犯してしまうのは当然であろう。
また,自尊感情が低い値を示す者の一部は,現実に生じた経験を適切に反映した結果ではないかといった解釈も可能になるであろう
(例えば,おもちゃを独り占めしたことで友だちに仲間にいれてもらえなくなり,自尊感情が低下するケースなど)。
そのような過程を経て低い値を示す「ソシオメーター」としての自尊感情を,改めさせることは本当に必要なのであろうか。
このように,自尊感情の機能を自身の適応状態を把握するためのモニターとして捉え直した場合,単に自尊感情が高い値を示しているといっても,
その実態は高低とは異なる次元で,社会形態や文脈,個人の知識・経験等に依存して様々に異なっており,単純にその高低だけで良し悪しを判断できないことがわかる。
◇ 関連PDFの紹介
これに加えて、「自己肯定感が低い+自尊心が高い場合」は、自尊心の傷つきによって実存の次元まで脅威が及ぶ(と本人に主体的に感じられる)ため、さらに過剰反応(防衛・攻撃)になるわけですね。
絶対軸を持っていないからブレやすい、だから虚勢を張るし、「相対軸」でしかない価値基準で「どっちが上か下か」の不毛な闘争になるわけです。
またこのような状態でカルト教祖や何らかの自我肥大者などを「絶対」として盲信した場合、「他者」を自身の軸の代用として安定しようとするため、本人に元々あった自信と活力をどんどん相手に奪われます。
よって自我肥大者だけはさらに自信と活力が増し、盲信者はますます同化してしがみつくしか出来ない脆弱な存在となり、「自らの空虚さ」を支えるため「自尊心(だけ)」を肥大化させていきます。
そして現実と自身の関係性を無視して「モニター」だけ変えてしまった結果、「勘違い」「現実とのズレ」を修正できずに突き進むわけですね。
プライドは高いが自信はない心の状態
「無理なくシッカリした自信がある人」は実はそんなに多くはないんだなぁと感じますね。
多くの場合、「個人の状態」ではどこか不安、迷いがあり、恥ずかしさがあり、「自分が正しい」と言い切れない、そういう「ぎこちなさ」「正直さ」が心の中にあるからこそ、人は大小の葛藤をし続けながら理解していくのでしょう。
内心はグラグラしているからこそ反動で「私は絶対正しんだ!」と防衛的な態度になったりすることもたまにはあるでしょうが、
しかしそんな個人の状態の時の「正直さ」は、何らかの集団や「正義」に同一化するときに麻痺化され、内心の不安定さ・葛藤が消え、「私」の卑小さ・弱さを忘れることが出来るため、
「個々の自信の確立ために個々それぞれの試行錯誤でシッカリした自分を造っていく過程」を経ずに、「即席の自信」と「強さの感覚」の代用品として用いられたりするんですね。
何か言われてすぐ反応するのも、やたら気にするのも、それは「正しさ」の感覚があるかないかが原因ではなく、
「行動や生き方の中でシッカリと日々経験され、時間をかけて身体化されるまで築かれた実体性」がなく、「内外に具体的に現れ、内外にハッキリと実感された自己肯定と承認の土台」が貧弱で弱いままだからであり、
土台は貧弱なのに「自分は正しいということにしたい、そう見せたい」という「欲求だけは強い」から防衛反応が強く出るわけですね。これが「プライドは高いが自信はない」という状態が生じさせる自己正当化です。
グラグラした足元と不安感の中で試行錯誤しながら己を信じ行動し、時間をかけて身体化されるまで実体的に己の人生を築こうとせずに、
「早道してお手軽に底上げする」ために何か超越的な他者や権威を求めたり、観念(神や絶対的とされた対象・思想など)」に人生の主導権を丸投げして、虚像の中で自身を肥大化させ、
その維持のために依存し続けることで、人生の判断の「軸」と自身の実体性を「他」に明け渡してしまう、というようなことが起きるわけです。
「確固たる自信」は内外の双方向からの肯定的眼差しと、行動、経験によって承認される中で育つものであり、
自己と他者との関係性で生じる「自己有用感」、土台を支える自己肯定感と「自己効力感」が共に育っていくことで強化されていきます。
事実・現実に基づかず、試行錯誤しながら行動も体験もせずに、知識や情報ばかり得る日常のまま、思考でこねくり回して表現するだけの、実体性を欠いた主張に明け暮れるような癖のついた自我は、
「時間をかけて実践の中で育てながら大きくシッカリ作り上げた自己感覚」の前では脆弱なんですね。だからちょっと否定されたぐらいで存在が大きく揺らぐ(ように本人は感じる)わけです。
そして過剰に「傷つけられた!」と疎外感・被害妄想を強めた結果、対象を敵化し排斥するという反応がパターン化していきます。
そしてその度に低次の防衛機制の「知性化」によって、自己正当化の防衛に始終しているだけでは、芯の部分、軸の強さが育たないでしょう。
何らかのコンプレックスが強い自信のない人ほど、逆に正義心を振り回して攻撃することがあるのは、何かの「恨み」「傷つき」が背景にある報復感情と言動が重なっているからです。
そういう時、人は怒りの感情を絶対的に正当化したいという衝動に飲み込まれてしまうことがあります。
つまり先に在るのは正義でも正しさでもなく、本当の動機の中心にあるのは「不満」や「怒り」からの攻撃衝動であって、後付けで「正義」に結びつけて合理化するわけですね。
これは「感情(反応)」それ自体が悪いということではなく「正義」それ自体が悪いわけでもなく、それはどちらも「必要なもの」です。
ただ、感情は感情として、思考(分析や意味付け)は思考として、事実は事実として、というように、それぞれを分けて捉えることが出来ていない、ということです。
「感情」と「思考」はどちらも必要ですが理性とのバランスが大事です。認知バイアスのように直感や先入観が「事実」を歪める場合もよくありますし、
感情バイアスのように「嫌な事実は認めたくない」、「仮に事実でなくても自分にとって気持ち良い方を信じたがる」という、「恐怖」や「願望」に左右されて「不合理な選択」をすることもよくあることです。
だから「事実」への判断や意味づけ(思考)に認知バイアスや「感情」が入り込み過ぎると、たとえば「極端な白黒思考」になったりします。
逆に「感情」に「理性」が干渉し過ぎる場合も、気持ちを抑圧し過ぎて本心がわからなくなったり過剰適応になったりするので、やはりバランスが必要なんですね。
ここで、「現代日本社会・組織の負の縮図」ともいわれることがある最悪のカルト事件に関する外部サイト記事を紹介しますが、
この記事を読むと、一般人には全く理解しがたい狂信的なカルト信者でも、『拍子抜けするほどある種「人間的」な感情が中心を占めていた』、というシンプルな事実が見えてくるわけですね。
〇 信仰心よりも憎しみが勝った。オウム真理教“天才科学者”土谷正実元死刑囚が真実を語ったきっかけ
死刑になった狂信的カルト信者ですら、ただ単純に洗脳ロボットだったのではなく、「自尊心の傷つき」があり、迷いや葛藤があり、嫉妬や恨みに満ちた競争心を持ち、世間によくいる組織人と変わらない承認欲求を持ち、
それを下の一般信者たちの前では立派な言葉で包み、「正しさ・正義」に擬態して合理化していただけなんですね。
自分がただ自分であること
自我は相互作用によって変化する相対的なものであり、様々な運動性によって肥大したり傷ついたり時に崩壊したりします。では存在は本当は何を求めているのでしょうか?
存在は「自分がただ自分であること」それ自体であろうとするだけであって、自分が正しい存在であるとか優れた存在であることを求めているのではないでしょう。
ただ、「正しくないと認めてもらえない」、「優れていないと敬意をもって扱ってもらえない」、「間違っている、異なっていると疎外される」、「劣っている、足りないと馬鹿にされる」という環境下に存在が置かれ、
『 その「条件」をクリアすれば、「自分がただ自分であること」を認めてもらえると勘違いした自我』の防衛反応が目立つ形で前面に出てくる、というだけでしょう。
「自分がただ自分であること」を肯定出来ない状態で、ただそういう条件だけを一方的に外部から課される場合、
条件をクリアしても、条件を満たした1部分が肯定されただけであり、存在そのものが否定されたままであることは変わらない。なので常に肯定されない全体性としての存在の疎外感は残り続けるのです。
そして見過ごされ抑圧されたものから、問いかけが生じ続けるんですね。なので先に「ただ在ることの肯定」がない時、外部に一方的に条件付けられた自我は、存在と不調和な関係性で発達していくのです。
「変えられるもの」と「変えられないもの」の見極め力
仏教的ですが、人生には「どうにもならない苦しみ」「変えられない運命」、そして逆に「変化を止められない」=無常な理が存在します。
「変えられるもの」と「変えられないもの」の見極め力によって、「抵抗しても無意味なものに抵抗しない」という心構えと同時に、そのどちらもが根本的には「諸行無常」であるわけです。
私たちはいずれ死にます。病気であれ事故であれ他殺であれ何であれ。法的な意味ではない「死刑」が各々に執行されるまでの執行猶予期間は様々ですが、平均で約七、八十年くらいの死刑執行率100%の生き物です。
「生」は、生まれた場や、持って生まれた条件などの差異などによって、内外に不平等さを生じさせますが、「死」は人を選びません。誰もがそこで完全にリセットで「無」にされジ・エンドになるわけです。
穏やかな死刑になるか激しい死刑の形になるかは人それぞれですが、いずれにせよ死ぬことは同じです。
この予測不能な死刑より前に法的に人為的に死刑にされるケースもありますが、それを逃れてもどのみち確実に死刑執行されることは同じです。
死刑執行の形が「がん」「脳梗塞」「心臓病」か「老衰」か何かはわかりませんが、どのみち「明日がこない日」「永遠の別れ」「最後」は訪れます。
私たちは百年後にはみなココにいません。たかだか数十年程度で存在しなくなる生き物です。
そして今はココにはいない別の人たちがこの世界で生きています。その別の人々もじきにいなくなります。私たちは生まれた瞬間から、別離・喪失そして死刑が確実な有限な存在です。
ココで死ぬとき、今までの全ての所有物は完全に失われます。知識も技術も財産も地位も名誉も肉体も愛する人も「私」は全てを失います。
数十年間だけ「私」が確実に保持できる(かのように思える)、一時的なものに過ぎない現象なのです。
そして「死」「喪失体験」というものは肉体の死という存在的な終焉だけなく、「疑似的な死」とも表現できる「大きな精神的な喪失」もあります。
「大きな精神的な喪失」に該当する体験は人それぞれでしょうが、何らかの喪失、失敗、大きな変化などによる「受け入れがたい現実」がある時、そこから徐々に現実を受け入れていく精神的な段階があります。
そのパターンのひとつとしてキューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)を参考にすることも出来ますが、このモデルは看取る側(医師)の死の受け止め方の方にウエイトが置かれていますので、「自身の死期」ではなく、「死別」への心構えのひとつとして、とういうものですね。
キューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)は、
第1段階:否認と孤立
第2段階:怒り
第3段階:取り引き
第4段階:抑うつ
第5段階:受容
↑上は「死」の場合の例ですが、① 否認と孤立 ⇒ ② 怒り ⇒ ③ 取り引き ⇒ ④ 抑うつ ⇒ ⑤ 受容 の流れは、「死に際して」だけでなく「大きな精神的な喪失~現実を受け入れていく人生の過程」にも、心構えとして応用はできます。
「死の受容と最後の成長 キュプラー=ロスの死にゆく過程論の変容」 より引用抜粋
キュブラー= ロスがシカゴ大学ビリングズ病院に赴任したのは1 965年であり、 それ以前に死にゆく患者の心理についての研究を行った形跡はなく,
教育セミナ ー を始めてからこの間遁に本格的に取り組んだと推測され, 短期間に5段階論か形成可能であったのは. かん患者の心理的適応についてのコッブの研究を理論的起源にしてたという仮説が立てられている
(中略) 臨床デー タから3段階論が導出されたとは必ずしも言えないわけだ。
これらの諸点からみても、 またい上記で概観したように5段階理論の背後にある間題関心からしても, 「死と死にゆくことについて」は研究書なのではなく. 教育セミナ ーに基づいて書かれた啓蒙書であり, とりわけ医師の否認という防衛機制を批判し、 自己防衛をすることなく死にゆく患者とむきあえるようにする啓発に主眼がおかれたものなのである
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
コメント