「弱さ・優しさ・真面目さ」に潜む暴力性  

 

前回に続き、宇宙から来た社会学者Wがヘイセイを語り、そして今回のテーマは「弱さ・優しさ・真面目さに潜む暴力性」です。

 

「善」とか「真面目さ」とか「弱さ」とか「優しさ」は一枚岩ではなく、「そう見えるもの(疑似的なもの)」と「そうであるも」は質的に異なり、また「大人しさ」もそうですね。

 

今回は主に「そう見えるもの(疑似的なもの)」の暴走の背景にある、複合的な心理的力学を考察しています。

 

「宇宙人ジョーンズの弟・社会学者W」が見たヘイセイ②
(※これは風刺的な誇張表現・比喩を含む記事ですので悪しからず。) 

この星のヘイセイ時代では、「自己責任論」と「反自己責任論」がイデオロギーに吸収され、アベノセイダーズアベシンジャーズというパラレルなスタンド使いの戦いが展開されてきた。

自称正義のフォースを駆使した、時空を超えた平成の関ケ原の戦いを展開し、かつてのサムライの戦の覚悟もない、口汚く品のない泥試合は、サイレントな民から失笑を浴びている。

今この星の時代は「レイワ」に移行しつつあるが、以下の想像力にはセンスと笑いと癒しを感じたので座布団三枚である。

 

 

我こそは正義!」で戦うお気持ち軍団の終わりなき泥仕合が繰り広げられているこの世界の片隅で、私はイマジンの替え歌を作ってみた。

 

イマジンの替え歌

想像してごらん 「老若男女全てが同じ善」の世界を

そんなに難しくないでしょう?

不正も逸脱も不平等も不条理も非合理性もなく

傷つく人も愚か者もいない

さあ想像してごらん  子供も大人もみんなが

清く正しく潔癖に合理的に完璧に生きているって

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね

でも僕一人じゃないはず

いつか君も同じ価値観になるといいな

そして全人類はひとつのお気持ちになるんだ

 

前回私は「この世の地獄界」の実例をひとつ挙げたが、上↑のもなかなかのゾッとする地獄界だ、だがこういう世界観が天国的な理想社会だと思っている人もいて、

こういう人は宗教信者でもそうでなくてもカルト的傾向に向かいやすいタイプのひとつであるが、「人のために」とか「社会を良くするために」とかの利他心は、必ずしも広い心ではなく美しい心でもない。

個々が自身の課題に向き合う方が、結果的には「人のために」「社会を良くする」ことに繋がる、ということもわからないまま、

己の卑小さを立派に見せたいために「利他行為」をするのであれば、ただの虚栄心で自己欺瞞でしかなく、そして自身の課題にすら向き合えないで逃げているような未熟さから生じている利他心は誰のためにもならない。

そんな己の虚無の穴埋めをするための自己愛に過ぎないのであれば、やがては自我肥大し、そして利他心を大義名分に他者を積極的に無自覚に傷つける「善意の悪人」になる。

 

弱さ・優しさ・真面目さに潜む暴力性
自己責任の対義語は何か?他者責任、公的責任、連帯責任、などいろいろいわれるが、

自他境界(私以外私じゃないの)と自他の課題未分離の場合、自己責任論は「私じゃない私じゃないの」の責任逃れになり、あるコミュニティでみなが「責任逃れ合戦」をした結果は、

分離肥大者(あなたのものは私のもの私のものは私のもの)と、一般人(あなたはあなた私は私)が戦い、その結果、分離肥大者の責任は、自他未分離の者(あなたは私  私はあなた)に押し付けられる。

エンパシー特性が強い者が、罪悪感を持たされ自責の塊となる時、無意識の責任請負い人になって、社会の罪を菩薩のごとく内面化し、自らを十字架にはりつけける。

こうやって極端な非対称性が生まれる。この状態を「ゴミ処理係」あるいは「無念菩薩」と私は比喩する。

無念菩薩は「宗教的に型として生み出された人工菩薩」とは異なり、気質が本当に優しい天然菩薩であり、愛すべき存在であるにもかかわらず、現代では「蔑まれた下働き奴隷の境遇」を与えられることが多い。

そしてその天性の優しさと寛容さゆえにゴミ山に押しつぶされた場合は、精神を病み、「自殺か廃人か」の二者択一の殉教を一方的に付加された不遇の人生になる。

本来は最も守るべき対象であるが、天然菩薩ほど影で生きていて大きな声で自己主張することはまずない。天然菩薩がストレス昇華に成功し調和バランスした場合は、「泥の中に咲く蓮」のような人になる。

「泥の中に咲く蓮」のような人々は寛容や多様性を殆ど語らない。本当にそれを達成している人は、強い言葉で説き伏せることはなく、「ただそう在る」ことそれ自体が表現であり、心身で語る。

「無念菩薩」ではない「気が弱く大人しく自我が弱いだけの「ゴミ処理係」の場合は、「表現されない怒り」が強化されて、やがて限界値に達すると無敵の人に反転し、祟り神として社会に報復することもあるが、

そういう超能動性への反転は極めて少ない。何故ならその者達は基本的に自我が脆弱だからである。

 

ここで急遽、小学館新人コミック大賞の受賞作の漫画を紹介する。17歳の浄土るる先生が書いた「鬼」という漫画で、通常の「わかりやすい鬼・悪意」のイメージではなく、

「生贄」「弱きもの」の役割とその心に潜む鬼、そして「善意という名の思い込み」と「偽善性」を描いているとても怖い作品。

強者・弱者・加害者・被害者というわかりやすい二元論や属性でではなく、「ニンゲンの無意識の悪意とルサンチマン」、「弱者に潜む力への意志」の変質と狂気性を見事に描いているような作品。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気が弱く大人しく自我が弱いだけの「ゴミ処理係」の多くは、たまに受動的攻撃行動で自己防衛しながら、弱弱しい形式の能動性で陰で報復しつつ繊細チンピラ化する。

※ 繊細チンピラに関しては過去記事があります。⇒  発達心理学でみた人格(パーソナリティ)障害

 

さらにその一部が弱者のルサンチマン共同体に合流した場合は,「あなたと私」で「私たち」になり、そして分離肥大化した「私たち」が全能感を持ち、「お気持ちヤクザ」となって能動的な攻撃に反転し、「この恨み晴らさでおくべきか」が「力への意志」と合わさってを開始する。

負の方向に修羅化した「弱者地獄」は不毛で残酷で、容赦も救いもない生贄ポジションを巡る最悪の地獄界のひとつである。

このように、心の中は「無念菩薩」ではなく、本当に優しいのでもなく、弱くて臆病なだけだから大人しく真面目にしていた「疑似善人」が、たまに世間が驚く「普段の印象と真逆」な現象・事件を起こす。

疑似善人疑似弱者強者愚者を過度に憎む。「逞しさ」を否定し、人の特性の差異やゆらぎへの耐性がない。

だが本来、逞しさ繊細さは補完し合うものであり、潰し合うようなものではない。「一方にはあまりないもの」を他方が持ち、それぞれ別の仕方で助け合う特質(自然な差異)である。

ゆえに本当に繊細で感性が敏感であれば、繊細チンピラにもお気持ちヤクザにもならない。それは自ずと調和へ向かうのである。

『「真面目な態度」を、「人から悪く言われないための最後の隠れ蓑にしているだけの愚鈍で卑小な自我」』が、「真面目さ」を盾にして、「勇気はあるがまだ未熟で粗い挑戦者」を叩くことで自我肥大する姿は、「陰気で腐臭を放つ寄生植物の咲かせる醜い花」のようであり、

花を咲かせても寄ってくるのはハエばかりで、結局似た者同士の低次元の承認合戦に始終する。

「潔癖な正直さ以外に何もない者」が、隠されたルサンチマンから「己が正直さ」を「人を容赦なく裁くための武器」に変え、「実力・魅力はあるが大らかで脇の甘い強者」に対し「重箱の隅百裂拳」でマウントし、姑息に自我肥大する姿は、インセル系の自我の変種・多様性バージョンに過ぎない。

「単純で未熟な挑戦者」や「実力はあるが大らかで脇の甘い強者」は、それ自体は悪でも劣でもない。

「弱さが強さを否定している構図」そのものが「弱さの暴力性」であり、その質は強者も弱者も変わらず、むしろ「強い者になりたい」の欲求が裏に強く潜んでいるからこそ、「そうなれない現実」へ反動し「強者」を否定している状態は、「怨念」を宿しているためより暴力的になる。

だが本当の「強さ」は暴力性の高さの結果ではなく、「弱さを含めて存在の全体性をそのまま肯定できる力」と共にあり、反対に、「弱さ・強さを嫌悪して自己分離している状態」は「暴力的で弱いままの心」である。

「弱さ」や「強さ」の本質は、「社会的弱者か強者か」というポジションと無関係であり、弱さの暴力性は社会的立場に関係なく、属性に依らず個々の「自我の脆弱さ」と「未熟さ」から生じる

 

 

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